「『反省しなさい』事件」の補足だが

マタイの福音書にある「山上の説教」のキリストのセリフをめぐって

神父様との間でひと悶着あったという話だったが

あくまでも、教会本部のお膳立てのもとに起きたことであるということを

前提として考えていただく必要があることを重ねて述べておく。

その神父様は単に私への助け舟を出しただけであって

そういう役割を演じるように言われていたことは

それ以前から何となくわかっていたことである。

それはともかくとして

そもそも信仰を抱く心理というのはどういうものかという話なのだが

やはり、その功績というのは

「新共同訳聖書」という、現在、最もポピュラーなカトリック教会でも使われている

日本語訳聖書の傑作のなせるわざでることはほぼ間違いないことであり

そういう意味では日本人は極めて恵まれた条件に置かれているということを

私は痛感しているのだが

日本におけるキリスト教徒の人口が全人口の1%にも満たないことを考えると

まさに灯台もと暗しと言わざるを得ないと言ったところである。

私が初めて手にした「新共同訳」の新約聖書は

例の神父様からただでもらったもので

リーズナブルな文庫サイズのペーパーバックでできており

より多くの人にとどくように流通しているもので

極めて容易に入手できるものなのだが

それでも、そこにたどり着くまでの人がほとんどいないという

厳然たる現実があるものと思われる。

「新共同訳」の新約聖書は、

キリストの人となりが正確に伝わる絶妙な翻訳であり

そういうことが信仰を抱く上での

絶対条件だと言っても過言ではない。

確か80年代くらいに翻訳されたものなはずである。

「新共同訳」の名の由来は、カトリック教会とプロテスタントの

「共同訳」の改訂版であることである。

確か、最高責任者はプロテスタントの人だったと思うが

そういうものをカトリック教会が正典としているのは

異例の名訳であるゆえんでもある話である。

なのでダメな翻訳では元も子もないという話なのだが

そもそも、福音書と言うもの自体が

二千年前に書かれた古い文献であるにもかかわらず

非常に文学的に優れた文献であり

キリストをありのままに描いた

いわゆる「自然主義文学」的文献であるということが

最も重要な点である。

「自然主義文学」と言うのは19世紀に生まれた

極めて近代的な潮流であることを考えると

そういう事実と言うのは

驚くべき事実であることは言うまでもないことである。

外国語にみだりに翻訳することを教会が長い間、

避けてきた理由はその辺にあるのかもわからない。

19世紀くらいまでラテン語の聖書しかなかったいうのも

驚くべき事実で

そんなことで、一体、どうやって人々の信仰を勝ち取ったのかは

私の中では最大の謎だと言ってもいい。

つまり、19世紀くらいまで、世界中のほとんどの人は

聖書、特に福音書を読んだことすらなかったのである。

なので、そういうキリストの人となりが

世界中の人々の前に公にされたのは

ごく最近の話なのだが

何度も失敗を重ねた末についに日本人の前に公にされたのも

1980年代という極めてごく最近の話で

そういう意味では私たちは非常に恵まれた世代であるという話である。

まあ、昔の人の話はほっておくとして

そういう福音書の自然主義文学的特徴から

キリストの言葉の端々に

「人間イエス」の特徴がよく現れているわけである。

自然主義文学的特徴というのは、感情移入できてなんぼの世界なので

そういうイエスに感情移入することが引いては信仰だという話なわけである。

そういうことと言うのは、ある程度、ナルシスト的な性質というものを

要求されるものであり

どこまで自分の中でイエスになり切ることができるかというのが

勝負の分かれ目のようなところがある。

あらゆる「自然主義文学」と言うものは、そういうことで成り立っているものである。

まあ、一般的イメージから言ってもそうだと思うが

私自身のイメージするイエスと言うのも相当、男前の人物である。

ブタの私がそういうイエスに「成り切る」と言うのは身の程知らずだと言われるのは

ごく当然の話ではあるが

まあ、一種の想像力のなせるわざだと考えていただきたい。

つまり、信仰を抱く上で肝心なことは想像力だと言う話である。

感情移入すると言うのは、もっと正確に言うと完全に同期してしまうことである。

まあ、一種の勘違いだと言えなくもないのだが

どう表現するかは別として

そいうものが信仰であるという私の考え方自体に変わりはない。

洗礼が一刻も早く急がれた背景にあるのは

そういう同期した状態が絶頂にある瞬間をとらえることが

洗礼を授ける側である

キリストの分身でもある聖職者の側との完全なる同期を可能にするためで

そういう同期した状態においては

あらゆる暗示が現実味を帯びて実体験となるためであると思われる。

洗礼と言うと大げさに聞こえるが

実際に聖職者の側との間に起こったことというのはごく簡単な暗示だけだったためである。

福音書の中では、洗礼は「聖霊によって悪霊を追い出す」ことにたとえられているが

ごく簡単な暗示だけで、そういう霊的交流というものが可能になる状態ということである。

そういう「霊」の存在というのは、三位一体の神の存在のことなので

それを信じるか信じないかは、決して第三者に強要できるものではない。

なので、実際にそういうことが起こったと言うことも合理的に説明することはできない。

ただ、実体験として経験した立場としては自明の理だと言うだけの話である。

例の正教会の神父には「神秘」とは映らないことが

第三者には「神秘」だと解釈されてしまうのは致し方のないことだが

それでも、彼は「断じてそんなことは一つもない」と言い切るゆえんは

その辺にあるわけである。

その両者には絶対的な溝があり、それを埋めるのは容易なことではない。

そういうことをあえてちゃらんぽらんな神父に語らせているチェーホフの意図と言うのは

そういう絶対的な立場の違いと言うものを意識した結果であり

あえて中立な立場に自分をおいて

あらゆる観点から作品に普遍性を持たせるためであると思われる。

そもそも、そんな「霊」のようなものが存在するはずがないと言われてしまえば

それで話は終わりである。

ただ、そういうものがあるという前提で読んでいただければ

全てが理解できるようには説明したつもりである。

(終わり)