まあ一種のノスタルジーと思われる。
ノスタルジーとしてはよくできているが
それ以上でも以下でもない。
ノスタルジーと言うのは過去を実際よりも
美しく思う心理で
食べ物でも音楽でも人物でも何でもそうなのだが
追体験してみると単なる幻想にすぎず
がっかりするというのはよくあることである。
一つ例を挙げると
「びっくりドンキー」のハンバーグは最高だなあと
思って一時期、ハマっていたはずなのだが
しばらく経ってから「あの体験をもう一度」と思って
行って食べてみると
あのハンバーグのどこが特別なのやら
さっぱりわからないといった思いをした経験があるのだが
そういうのがノスタルジーの実態というものである。
まあ今でも繁盛しているので
あくまでも私の主観にすぎないのだが
一方で何かしら嘘があるような気もしたりする。
この歌も「初恋」というものをモチーフに
いろんな角度から演出してはいるものの
ノスタルジーと言う意味では
実体験を実際よりも大げさに語っており
ただ単にそういう技術において優れているにすぎないと言ってしまえば
それまでである。
どの世界にもそういう拡大解釈的な歴史的遺産というものは
存在するもので
私に言わせれば仏教などもそういうものの中の一つである。
仏像に対する人々の執着というのは
そういうものの象徴であると言える。
あるいは無限に存在する念仏などもそうである。
キリスト教でも祈りは大切だと言われているが
キリスト自身は、神は「祈る前からあなた方に必要なものをご存知である」と言っているし
キリストの説教自体も一つ一つは決して長いものではない。
なので注釈だらけの聖書を作ることに必死になっている宗派もあるが
そういうのはキリスト教本来の姿ではないというのが
私の考えである。
いわゆる「蛇足」というヤツである。
仏教のマンダラとミケランジェロの「最後の審判」が何となく似ているのは
一種の皮肉である。
そういうのは偶像崇拝の極みだと言っていい。
イスラム教が徹底して偶像崇拝を拒んでいる姿勢というのは
我々、キリスト教徒も見習わねければならないところである。
言い出しっぺは旧約聖書なのだが
いつからかそういう思想は忘れ去られてしまったようである。
一方で受肉した神としてのキリストに信仰を見出すというのが
イスラム教との決定的な違いではある。
福音書では実物はおがめないものの
そこで描かれている人間としてのキリスト像が信仰の対象となっている
という意味では、偶像崇拝と紙一重のところはあるが
あくまでもそこで浮き彫りにされているキリストの霊性が
信仰の対象となっているという意味では
偶像崇拝ではない。
キリストのそういう点が当時のユダヤ人との間で
議論されている「ベルゼブル論争」(マタイ12-22)という個所がある。
そこでキリストは「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば
神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言っている。
まあそういう点から言っても「神の国」は必ずしも来性的なものではない
ことは自明の理なのだが
いわゆる「天国」みたいなものと混同されている現状がある。
そういうのもまた聖書に注釈をつけたがる人たちの原因の一つとなっている。

