結果ばかり追い求めてしまって、結果が出ていることを⭕️とするのは、なぜだろう?

 

 

目標があるのは良いことだけど、

目標と結果をセットで考えて、

 

結果が出ているのは⭕️

結果が出てないのは❌

 

こういう風に考えるパターンの人が

一定数いるなーと思う。

 

その思考は、どうして生まれたのだろうか・・?

 

 

「結果」と検索してみると、

こんなことが書いてあった。

 

・ある物事・行為から生じた状態(になること)

・植物が実を結ぶこと。その結んだ実。結実。

(Googleより)

 

プロセスを辿っていった「状態」に過ぎないはず。

ということがよくわかる。

 

 

ちょっと事例がてらに自分の小話をいうと。。

 

幼少期から習い事を結構本格的にやっていて、

そこで、指導者や親から言われていたのは、

 

「結果が出なければ意味がない」

「頑張っても、結果が出てない」

「頑張ったとは言わない」

 

個人的には小学校低学年から大人になるまで、

言われ続けてきた。

 

 

その事例から考えてみると、

要するに結果が出なかったと認識された時、

頑張ったことも意味がない

頑張るということは、日々の練習やプロセスであり、日常であるが、それすら意味なかったと言われる

生きていることすら意味がないと否定された気持ち

 

 

になってしまっていたのではないか、

と仮説を立てた。

 

しかも今となってわかることは、

「結果」というのものを図る基準が

かなり曖昧だったことも問題だった。

 

曖昧だったとは・・↓

・目標は大きすぎる(全国大会のような基準)

・小さな目標は曖昧に設定されている

・練習方法は、流行り廃りで方針が変わるから身を結んでいるかわからない

・どうして方針が変わったか理解できてない(大体、指導者の研修の後に、思いつきのように変わる)

 

 

このような事例は大小あるとは思うが、

多かれ少なかれ、経験している人が

多いように思う。

 

 

誰しも承認欲求があるし、

特に甘えたい願望がある幼少期に、

 

 

頑張ってきたことを認められず、

むしろ、「結果が出てないことは意味がない」と

とインプットされてしまった場合は、

 

 

なおさら

「結果」ばかり追い求めてしまうのではないだろうか。

 

 

誰かの「承認」により、

自分が生きていることを感じたいが故。無意識に。

 

 

時代もまた、

「結果」という目にみえるものの方がわかりやすかったということも影響していると思う。

 

結果を追うことが悪いというのでなく、

 

結果が出てないことを❌として

結果が出ていることを⭕️とすることで

苦しくなってしまうのであれば、別の考え方にするのも

一つではないかな・・と思った。

 

 

結果というのは、一つの状態であり、

その人本来を測るものではない。

プロセスを辿ってきた、その状態のことを言うだけである。

 

 

そう考えた時に、

プロセスにおいて、自分の価値観を一緒にセットできるかは、

その人の人生の「幸せ」に通ずるのではないだろうか。

 

仮説に過ぎない^^

 

 

結果が仮に出なくても、

〇〇ができたら良いよね!

といったものがプロセスに

組み込まれていると・・・想像したらどうだろうか照れ

 

 

では、また^^

 

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