1、はじめに

古代から洋の東西を問わず、収穫した農作物の保存は死活問題に係るほどの

重要な問題でした。その為、人類は収穫した作物を長持ちさせる為に 

あらゆる「創意と工夫」を凝らし、長期保存の方法を模索してきました。

 「発酵食品」はその最たるものでしょうしそれ以外にも「燻製」の方法等

  も確立してきました。

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古代ローマ時代(約2000年前)例えば属州のイベリア半島(スペイン)には「銀の道」

  と呼ばれる鉱物資源を専門に採掘・採取してローマまで運搬していた「古代の

 ローマ街道」が残っています。

 この地域の地層からはローマ時代の「栗の木の花粉」が大量に発見されて

 います。これは当時の鉱山労働者の為の食料として大量に「栗の木」が栽培

 されていた証拠なのです。

 日本でも今から5500~4000昔の縄文遺跡である青森県の「三内丸山遺跡」

 からは同じように周辺の土壌から大量の「栗の木の花粉」が発見されています。

  古代ローマの属州と同様に ここでも栗が貴重な食料だった事が分ります。

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2、貴重な食料を護る工夫

  古代人にとって 貴重な食料の保存方法には膨大なエネルギーと知恵を使った事は 容易に想像出来ます。今回は 現代に残るこれら害虫(鼠)対策の幾つかを写真で紹介します。

     今回は特に「ネズミ返し」に焦点を充てて写真で紹介します。

A, ヨーロッパのネズミ返し (スイス:写真提供 後藤徳夫氏)

 地盤から立てた基礎(日本の建築用語では「ローソク基礎」と呼んでいます)

 立ち上がりローソク基礎の上に 平らな石を置きその上に土台となる横木をのせ木造の倉庫を建築しています。

これだけ大きな平らな石は 地面から這い上がってきたネズミにとっては突破出来ない大きなハードルとなって倉庫内の食料を護っているのです。

B, バリ島のネズミ返し  ( ウブド テガララン 棚田:ライステラス 世界遺産 )

 文化財指定の米倉庫  ( 屋根がトタン板貼なのが残念:児玉 )

高床式倉庫の柱上部の詳細

 ここではネズミが登りきれないように逆勾配に加工されているのが印象的です。

 建築的には 短柱の上部に四角くかつ逆傾斜に加工された平たい板を乗せ、

 その上に横材の土台を通しています。

C, 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)にみるネズミ返し(約2500年前の弥生時代)

 復元された弥生住居

 食料貯蔵の為の倉 柱頭部に注目 この他にも多くの倉が復元されています

(屋根・壁共茅葺)

 柱頭部には巨木の輪切りが乗せられているのですが 時代的にこの納め方

 には建築屋としては承伏しかねるのですが・・・・

 (巨木を輪切りにする為の道具が有ったのか? 鉄釘や槍鉋は出土しています)

 別棟の倉(屋根茅葺・壁板張り)も紹介します。当然ですが 柱は掘立式です。

 同じように平らな板の上に横材を流し土台としています。

3,さいごに

洋の東西、或いは時間を超越して人類は同じようなことで悩み、それぞれ知恵を

絞って解決策を見出してきた事が よくわかります。

考えてみれば この5~6000年間 完璧な解決策も見出せず「対処療法」でその時

その時を凌いできた証を見ると人間の知恵も所詮この程度なんだ・・・・と、

妙に納得してしまうんです。

皆さんはどのようにお感じになられましたでしょうか?    

                             (完)

写真&文責:児玉博文

 

 

 

 

 

 

 

★今回は 建築とは全く関係のない文章を載せています。その為、【超番外編】としています。

  この文章は約9年前に書いたものですが 先日、原稿を読み返して少し加筆しましたので

  ここに掲載いたします。

                 興味のない方は 読み飛ばしてください。 

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○ 「ジェームズ・ボンド」 とはあの有名なスパイ映画のスーパーヒーローです。

著者はイギリス人のイアン・フレミングで 後に「サー」の称号を得ています。

映画では 初代J・ボンド役をショーン・コネリーが六作品(注-1) 演じ、空前の大ヒットシリーズとなました。その後も多くの俳優がジェームズ・ボンドを演じ、現在六代目のボンド映画が製作上映されています。
タフでお洒落でクールなプレイボーイのジェームズ・ボンドと「玉子かけ飯」は如何にもミスマッチであろう事は私も認めます。勿論、ボンド映画にこんなシーンは登場しておりません。

しかし、原作にはその模様が描かれているので以下に紹介いたします。

その前に・・・。
著者フレミングは1962年(昭和三十七年)に来日している。その時の取材から、シリーズ第十一作目の作品はそれまで彼が描いてきた「ボンド像」とは可成り異なったシチュエーション設定から筆を起こしています。

題名は「007は二度死ぬ」発表は1964年で日本語のハードカバーが出版されたのは1967年でした。映画化されたのも同年です。この映画は日本でオールロケされ、日本人初のボンドガールに女優・浜美枝が抜擢された事やコネリー自身が 役柄のイメージが固定化する事を嫌い次作「女王陛下の007」への出演を辞退する等々、話題性にも事欠かなので ご年配の方は記憶に有るのでは無いでしょうか?(注ー2)


《先頃発表されたショーン・コネリーの 引退は惜しまれてならないが 彼流の男の美学

 なのでしょう・・・・・・・・・》

そろそろ主題に移ります。
【原作「007は二度死ぬ」井上一夫訳・早川書房刊】の本の中から、その一文を引用します。  (注ー3)
~夜が明けると、両手がヒリヒリする
以外にも痛みは残っていなかった。
キッシーは生卵をかけた米の飯と豆腐と
いう特別のごちそうを用意してくれた。
ボンドが前夜迷惑をかけたわびをいうと、

彼女はいう。轟さん、(注ー4)あなたには

十人分のサブライの根性があるけど、

からだは ひとつしかないのよ~』
如何でしょうか?

ボンドは昭和三十年代末の日本人にとってご馳走だった「玉子かけ飯」をこの様に

食べていたのです。

 

何故「玉子かけご飯」だったのか?
一般に鶏卵を食べるようになったのは江戸時代と云われているが 当時は滋養強壮と云った薬効を期待してのものであり、相当に高価な食材だったと想像されます。

一般的な家庭で生卵が食べられるようになったのは 高度成長期以降のことですから・・。

その高度成長期は昭和30~40年の約20年間だった事を考えると、この小説に「ご馳走の玉子かけご飯」が登場しても不思議ではないですよネ。

 

では、「玉子かけご飯」の歴史は?
天保四年(1833)年生まれの(美作国久米北条郡垪和村出身::現在の岡山県美咲町)岸田吟香が 卵かけご飯を食べた日本で初めての人物とされ、周囲に「卵かけ飯」を勧めたと云われています。

「日本で初めて」と云うには可成り無理があると思いますが 明治期のジャーナリストで

実業家でもあった彼の発言が 記録として残された事は想像に難くない。(注ー5)

 

スマートでクールなJ・ボンドも  日本では高価で特別なご馳走の「玉子かけご飯」を食べていたのである。              (終)
平成二十九年春 自宅にて
近代建築施工技術史研究会主催  児玉博文記
【copyright hirofumi kodama】

 

児玉追記

 後にコネリーの息子(イギリスの舞台俳優)が TVドラマで「スパイ・メーカー」と題する

 スパイ物のヒロインを張っています。

 このTVドラマは 第二次世界大戦中、若き日のイアン・フレミングの活躍の姿を演じて

 います。虚実入り乱れたストーリー展開ですが 後の007シリーズのスパイ活劇の

 断片やエキスが随所にちりばめられていて007シリーズの映画を観られている諸氏

 には 其れなりに楽しめる「娯楽作品」に仕上がっています。

 勿論、製作者側にも想いが有って 敢えてコネリーの息子を主役に抜擢しています。

 B級TVドラマとしては 其れなりに上手に出来た作品です。

 機会が有ったら 是非一度 観られたら如何でしょうか?


資料編
(注ー1)  ション・コネリーは6本の007シリーズに出演しており、異なるプロダクションの制作になる「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」を加えると7本となります。

ここでは  圧倒的な人気で不動の地位を築いた初期作品の題名と公開年を記しておきます。
1、ドクター・ノオ 1962年
2、ロシアより愛をこめて 1963年
3、ゴールドフィンガー 1964年
4、サンダーボール作戦 1965年
5、007号は二度死ぬ 1967年
7、ダイヤモンドは永遠に 1971年
 (注ー2)シリーズ第6作
【女王陛下の007】 1969年 主演ジョージ・レイゼンビー(George Lazenby)
(注ー3)  1978年に文庫本として出版された。また、2000年には 同じく井上一夫氏の新訳により、改訳文庫本としてハヤカワ文庫から再び出版されている。
《生卵をかけた米の飯》の一文は 改訳本でも初版のまま掲載されている。
(注ー4)著者イアン・フレミングはジェームズ・ボンドの日本名を「轟太郎」彼を助ける日本人女性を「キッシー鈴木」日本の諜報機関のドンを「タイガー田中」としている。
(注ー5)  東京日日新聞の主筆 日本初の従軍記者として活躍。後に実業界でも成功をおさめる。四男は洋画家の岸田劉生。
                                                                        以上

  ~建造途中で放置されたRC造ヨットの紹介~

1、はじめに

   鉄筋コンクリート造の船の歴史は 思いの他古いのです。

  西暦でいいますと 1850年代後半に フランス人のランボーによって

   造られた事が コンクリート工学の歴史に残っているのです。

  この時の船の大きさは 概ね3m程度と云われていますが 正式には 

  判っておりません。  (白黒写真が残っています)

  因みに 「鉄筋コンクリート造」という工法が 発明されたのも

  フランス人のモニエによる基本特許取得が最初と云われています。

  これが 西暦1867年 つまり明治元年の1年前にあたります。

  (因みに 1868年が明治元年)

  つまり、建築や土木の基本的な築造方法となる「鉄筋コンクリート造」

  発明よりも約10年程前に 実際に造られているのです。

 

2、建造中の放置されたような「鉄筋コンクリート造の船」

   先ずは その写真をご紹介します。  

  

   住宅街の中に放置されたようなヨットです

                        船首と船尾の写真も紹介します。

  

 

3,何故、こんな物がここに有るのか?

   私は 今から35年位昔になるのですが 広島県福山市箕島でヨットの進水式を

  観た事があります。         白亜の美しいヨットでした。

  実は このヨットが「鉄筋コンクリート造」だったのです。

  但し、その事を知ったのは 翌日の中国新聞に この時の進水式の記事が

  載っていたのです。

  その記事によって ヨットが「鉄筋コンクリート造」であることを知ったのです。

 

  私の憶測ですが 海を愛する個人が 手作りでヨットの建造を始めやがて

  何らかの事情で 建造を中止し、そのまま放置されたものと考えます。

 

4,何時からここにあるのか?

   私がここに行った時、偶々散歩されていた60歳位の男性と会ったのでお聞きした処

  「自分が子供の頃からここにある」と云われました。

  その話が本当ならば 50年以上昔からここにある事になります。

  しかし、写真にもあるように 建造中のヨットの胴体を支える鉄骨や屋根のトタン板の

  錆の具合、或いは 単管とクランプで足場が組まれている事(勿論錆びているが・・・)

  また、仮設用のコンセントBOXが それ程古びていない事等々から考えると 細々と

  建造作業が続けられていたのではないかと思われます。

  但し、私が見る範囲では コンクリートの劣化や中のメッシュ(鉄部)の錆びの状況

  から 使用に耐えるだけの強度を期待する事は無理だと思われます。

  つまり、仮に海に浮かんだとしても 荒波に耐える程の強度は期待できないでしょう。

 

  いずれにしても 建造途中でそのまま放置し、今に至っていると思われます。

 

5,船の中の写真を紹介します。

  左下:船首部分           右下:船尾部分

 

   内部の写真には キール(補強リブ)の様子が見て取れます。

 

6,さいごに

   場所の紹介ですが 兵庫県神戸市灘区新在家南町

  酒造メーカーの「沢の鶴」の工場の直ぐ近くです

  

  お近くの方は ご存じかもしれませんが なかなか見られない船です。

  一度、騙されたと思って 見学に行かれたら如何でしょうか?

           なかなか興味深いですよ。

                                                           

  「その2」では 実際に外洋を航行していた 鉄筋コンクリート造のヨット

  (陸に揚げている)を紹介します。  

                                             (完)