~本殿から外に出掛ける神様の為の仕掛け~     

                         写真&文責:児玉博文

 

,はじめに

筆者が言いたかった事は「我が国の八百万(ヤオヨロズ)の神々は実に人間的であり 決して「崇め奉られるだけの存在ではない」事と、その為に神社建築に施された

建築上の色々  な仕掛けを紹介したいと考えたのです。           旧暦の十月を「神無月」と書きます。この読みは{カンナヅキ或いはカミナシヅキです。(言い伝えによると全国の八百万の神々が留守神様を残して出雲大社に出かけてしまうからだと言われています)                                        反対に出雲ではこの時期を「神在月(カミアリヅキ)」と呼ぶそうです。

この様に八百万の神様は「自分が住む神社を自由に離れる事が出来る」事を前提にしていますし、その事に不思議さを感じたり 疑問に思うことは少ないのではないでしょうか?つまり、我国の八百万の神は人間くさい神様だと言えるのではないでしょうか?

 

,神様が通る道

  我が国には昔から 身の回りの物全てに「神が宿る」と考えられてきました。

 例えば 井戸や便所を勝手に埋めたり或いは壊したりはしませんでした。どうしてもそれらを埋めてしまわなければならない場合には 神主さんに来て貰って「お祓い」或いは「お清め」と言われる神事を済ませた後に 工事に着手するのが普通でした。

事の真実は兎も角、「神の祟り」を恐れたからなのです。

 特に井戸を埋める時には 中が空洞になったパイプ状の物を埋けて常に地上と井戸の中を神様が自由に行き来できるような道を設けていたのです。ここまでの処置をしないと「祟られる」 昔の人は本気でこの様に思っていたし、実際の工事にあたってここまでの気遣いをしていたのです。

 

Ⅲ、国宝・吉備津神社本殿に見る「神様の通る道」の紹介

古くからこの神社は 備前国(含美作国)・備中国・備後国の三備一ノ宮として尊崇されてきた 吉備の国を代表する神社です。     旧社格 官幣中社

多くの神社では「神様の通る道」は分かり難く造り込まれているのが一般的です。

しかし、吉備津神社は本殿裏側に勝手口とも言える明確な扉を設置しているのです。

先ずは 国宝・吉備津神社本殿と特徴的な比翼入母屋造りの写真を紹介します。  

写真-1 -2 白○部分参照                2010.11.9 撮影

写真は 平成の大修理(屋根檜皮葺改修工事)竣工時の写真です。

向かって右側が同じく国宝・拝殿 左側が 裏(奥)側     比翼入母屋造  

古くからこの神社は 備前国(含美作国)・備中国・備後国の三備一ノ宮として尊崇

されてきた 吉備の国を代表する美しい神社です。       旧社格 官幣中社

国宝・吉備津神社本殿の平・立面図を紹介します。

赤○部分に注意して下さい。              図面-1 

図面-2

次に この本殿裏の扉が開いた状態の実際の写真を紹介します。

写真-①  先ずは本殿の外陣部分から開いた状態の扉を見て貰います

注意:「平成の大修理」工事中  2016.9.18 撮影

写真- 次は外部からこの扉が開いた状態を紹介します   2017.5.6 撮影

   開いた扉から 本殿内部の外陣部分を垣間見ることが出来ます。

Ⅳ,外に出た神様が目にする景色とは・・・・

   新緑の中に重要文化財の廻廊が緑に見え隠れしています。

 正面には印象的な三角錐の山が存在感を放ちます。 写真-3 2006.5.20 撮影 

 平成の大修理施工時 一般公開の際に足場より  

 こんな景色を見たら神様でなくても心ウキウキ、外に出かけたくなるのではないでしょうか?  

Ⅴ,さいごに

 日本全国のお社(ヤシロ)全てにこの様な仕掛けや設備がある訳ではありません。

普通には人目に付かない方法で神様が外に抜け出す事が出来る様な仕掛けが施されているのです。 例えば、床下を通って外に出る様な方法もよく採用されています。

出雲大社の場合を見てみましょう。

正面以外の3方向には それらしい扉は一切設けられていません。

(下は神様が仮の宮へ遷座された後、一般公開された時の大社本殿の写真です)

 写真-4 2008.5.3撮影

参拝者と本殿の大きさを比較してみると 出雲大社本殿の大きさが「日本一」と云わている事が理屈抜きで実感出来ると思います。 


 写真-5  写真-6

正面以外の三方向、何れの面にも神様の出入りする扉は見あたりませんネ・・・・

                                     【完】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~薬師寺は2つある 薬師寺には玄奘三蔵の本物の舎利が納められている~

2, 現在の奈良西ノ京の「薬師寺」には 本物の「玄奘三蔵法師の舎利(頭部の

  真骨)」が安置されている事実について

・「玄奘」とは唐の時代の高僧です。初唐時代に国禁を犯して唐を密出国しインドに行って修行を重ね 大量の教典を唐の都に持ち帰ります。玄奘は旅行記を残しませんでしたが 玄奘の弟子達が口述筆記、或いは高弟達が玄奘から直接聞いた体験談を本にまとめています。(この点はマルコ・ポーロの東方見聞録に似ています)

例えば「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」や「大唐西域記」等がそれです。

後の明時代には 玄奘がインドまで求法(グホウ)の旅を続けた旅行記を脚色して「講談話」としてまとめられます。 これが後に有名になる「西遊記」です。

 

・何故、日本に「玄奘三蔵法師」の舎利(真頭骨)があるのか?不思議ですネ

玄奘三蔵の本物の舎利が 埼玉県の岩槻市にある慈恩寺の「玄奘塔」に祀られて

いるのです。昭和54年慈恩寺から玄奘の舎利が奈良薬師寺に分骨されました。

 

・最後に玄奘三蔵の真骨(舎利)が何故日本にあるのか?について説明します。

昭和12(1937)年日本軍は南京中華門外雨花台にある兵器工場に進出します。

その後の昭和17(1942)年に軍は工場の裏山に参拝用の稲荷神社を建てるために

工事を始めた時のことです。

工事中に(砲台を掘っていた作業中)奇妙な土の層を発見したのです。

専門家が発掘調査を進めていくとその下約3.5mの処から石棺が出土したのです。大きさは 59㎝×78㎝×(深さ)57㎝ その中にも石棺が納められていました。(この中から出てきた石棺の蓋はレンガで作られていました)

 問題は その石棺の両面に文字が彫られていた事です。そこに彫られていたのは

 北宋と明の時代の葬誌(そうし)でした。結論から言いますと、この時の専門家の解読と鑑定から「玄奘三蔵」の頭蓋骨であることが確かめられたのです。

 南京政府は玄奘三蔵法師の遺骨(舎利)をお祀りする為に新たにお寺と塔を建立し、昭和19年に盛大に奉納の祝典を開催しています。この時、臨席した日本仏教界に中国仏教界を始め南京政府から玄奘三蔵の舎利が正式に分骨されたのです。

 日本軍の行動が中国側に高く評価されたからだと云われていますが 中国側からは「日本軍のゴリ押しだった」との批判も一部にはあります・・・。今となっては どちらの言い分が正しいのか?判断が分かれるところですが、岩槻の慈恩寺さんが発行されている解説本には 戦後、日本側から蒋介石主席に対し、玄奘三蔵の舎利について返還すべきか否か?伺いがなされ「それにはおよばず」との回答を得て、現在の十三重の石塔(玄奘塔)の建設が進められたと記されています。

 占領下の我が国にとって 蒋介石主席からのお墨付きは心強かったと思います。

 昭和30年、慈恩寺の舎利は 台湾仏教界からの要請で台湾にも分骨されています。 

 

慈恩寺:玄奘塔 上:門遠望 下:石造十三重ノ塔(ここに玄奘舎利が眠る)

 撮影:児玉博文

●石造十三重ノ塔は 東武鉄道社長 根津嘉一郎氏から寄進されました 児玉記

 

因みに、現時点で明確になっている「玄奘」の舎利(真骨)は 中国大陸に

10箇所、日本に2箇所、台湾に1箇所、合計13箇所に祀られていると

云われています。

●名古屋の覚王山日泰寺(カクオウザンニッタイジ)に祀られている仏舎利

については 我が国の現時点に於ける唯一の出所が明確な仏舎利です。

何故なら、明治末 インド政庁の発掘により出土した物であり 当時の緩衝国で唯一の独立国であったタイ国に正式に贈与された仏舎利を日本の外務省の働きによって仏教国である我が国に寄贈された物なのですから・・・・・

遣唐使として唐に渡った空海は 帰国時に仏舎利を数十粒持ち帰ったとされて

いますが その出自は不明確です。勿論、その様な議論自体が非難されるので

しょうが 世間に伝承されている仏舎利の多くは 伝説的な扱いを受けている

のが現実なのです。(完)

~薬師寺は2つある 薬師寺には玄奘三蔵の本物の舎利が納められている~

1,  奈良 平城京の薬師寺と藤原京の薬師寺について

・薬師寺の場所は 平城京の中心に位置する朱雀大路を中心にして西側に広大な

  敷地を持つ古から続く巨大寺院で奈良時代の官寺の一つでした。

私(筆者)が始めて一人旅でこの薬師寺を訪れたのは昭和47 年でした。 

当時はめぼしい建物と云えば国宝・東塔が一棟建っていたくらいでした。

 (現在の金堂や西塔は影も形もありませんでしたし、境内には大きな松が

  生えていました。そこは正に「大和古寺風物誌」の世界でした)

境内には 西塔の芯柱を乗せる「心礎」がそのままの状態で露出していました。

この心礎の中央部には仏舎利を納める為に加工された窪みがあり、ここに

溜まった水面に写った「東塔の相輪の水煙と東塔」を一枚の写真に納める、

そんなアングルの写真が人気でした。

現在の奈良市内中心部はかっての「平城京の左京」部分にあたります。

東大寺や興福寺あるいは 現在の奈良県庁舎や奈良国立博物館等がある山手の

丘の部分は平城京の都市計画から外れた位置にあたる為、「外京(ガイキョウ)」と

呼ばれ発展してきました。

この平城京から真南に行くと「藤原京」と呼ばれる古い都跡があります。

現在でも発掘調査が行われていますが 都の様子が調査の結果、色々と判って

きました。ここにはかつての薬師寺の伽藍跡がそのまま残っているのです。

これを「本薬師寺(モトヤクシジ)」と呼んでいます。

ここにも、現在と全く同じ「伽藍の建物」が建てられていた事が残された礎石

から判明判しています。

建築史の世界では これを元に「薬師寺再建説・非再建説」の論争が繰り広げ

られています。(注意:「法隆寺の再建説・非再建説」の方が有名ですし、

ご存知の方も多いのではないでしょうか?)

●国宝薬師寺東塔のシルエット(現在、解体修理中)

相輪(九輪)の上に位置する水煙(≒6尺)は東西南北4枚で構成されており

各1面に楽器を持った天女が3合計12人の天女が描かれている。

  児玉記

 

 

                                                          児玉 記