~ 備後、鞆の浦にみる職人気質 ~
1、はじめに
広島県福山市の南端に位置する通称「鞆の浦」とは「鞆に位置する入江」をさす言葉です。ここは「汐待の港」として古より栄えた港町で江戸時代には「朝鮮通信使」の立ち寄った町でもあり「北前船の航路」にも位置した事もあって非常に栄えていました。
今回はこの「鞆の浦」に栄えた大店に見る施主の主人と大工職人との間にあったであろう交流をエピソードとともに紹介します。
2、かって栄えた老舗を訪ねて
ここ鞆の浦には 長く営業を続けているお店がありますが その中でも今回は「澤村舩具店」の店舗に使われている「塩木」を紹介します。 まずはその「店構え」です。
写真-2 看板
江戸時代からここ鞆の浦の大商人達は それぞれがそれぞれの「分を守って」生活していました。海に張り付いたような狭い敷地に発展していったここ「鞆の浦」では限られた空地に多くの人々が生活していましたから、昔に建てられた長屋風の建物を上手に使いこなしてきたのです。例えばこの「澤村舩具店」のお店は元々二軒だったものが一軒のお店として使われているのです。
時代とともに 商売も繁盛するときもあればそうでないときもあります。景気が良くなってお店が手狭になるとお隣の家を買い足して店を広げ、逆の場合はその自宅や店を手放す。
そんな事が代々連綿と続けられて今日に至っているのです。
ただし、単にそれだけなら何も特別の事でもなく広く全国的に行われていた事でが ここ鞆の浦では 事情が少し異なっているのです。
(但し、これについては別の原稿で一章設けます)
江戸時代から続く家々が今でも現役で使われている事に まずは驚きです。
そんな町屋の痕跡がここ「鞆の浦」には数多く残っているのです。
そんな古くから続くお店には 代々の店主が持ち続けた「拘り」があるのです。
ここ鞆の浦の大店の店主にとっての拘り、それが「塩木」なのです。
3、そもそも「塩木(シオギ)」とは?
字のごとく「木を塩水(→この場合は海水をさす)に1年以上漬けた物」を言い
ます。木を海水に漬けるとはどの様な事を意味するのでしょうか?
まるで判じ物かクイズのようですですが 先ずは写真を見ていただきましょう。
「一目瞭然、百聞は一見に如かず」ですから・・・・
写真-3 お店の真ん中に鎮座する一抱えもあろうかという梁です。この木が「塩木」
なのです。これだけでは 理解できないでしょうから次の写真を見てください。
写真-4 この写真は お店の外部からこの梁の端部を写した写真です。
意味が分からないと思いますので下の写真の説明をします。
写真の上部は外部の小庇です。そしてこの庇の下が外壁に突き出た大梁の端部です。
色が白っぽい事に注目してください。同時に大梁の端部(小口部)と小庇の端部が
小さい閂(カンヌキ)状の金物で辛うじて繋がっている事も併せて確認してください。
「塩木(シオギ)」の説明を続けます。ここ鞆の浦の商人達は 自分が建てる建物は絶対に朽ちては困るのです(当然のことながら・・・・)その為には腐れや虫食い(シロアリ等)に対する対策にはお金を惜しまなかったのです。
その昔、自分が自分のお金で家を新築する場合、その1年以上前から木材を切り出し、乾燥させていました。一般的にはそれが常識だったのです。
処が鞆の浦の大商人達はそれに加えて「塩木加工」を施したのです。
砂浜に穴を掘らせてそこに材木を埋めて1年以上放置します。
海水の干満を経て砂浜に埋められた木材には 常に海水が飽和・浸水した状態になります。その後、掘り出して乾燥させた後に加工するのです。
ここ鞆の浦の人達は 竣工祝いに来てくれた人達にこの「塩木」を見てもらう事が
正に「ハレ」だったのです。
また、竣工祝いに訪れた町の人々はこの「塩木」に感嘆したり、意見を述べあったり、中には批判めいた事を言う人も居られた事でしょう。
このような事は 全国的にみても非常に珍しい事だと思います。
5,施主と職人
考えてもみてください。日本の木造大工職人達は昔も今も「道具は全て自分持ち」
つまり、自分の道具を使って材木を加工するのですから 塩水に浸かった材木を加工する事は大変なリスクであり、出来ればやりたくなかったと思います。
なぜなら、道具はすぐに使えなくなります。“アッ!”と云う間に鉄製の道具類は
錆てしまうでしょう。今と違って「使い捨ての道具」等は無い時代、そもそもそんな
発想など何処にもなかった時代に 大工達にとっては命の次に大切な財産でもある
大工道具が錆びついてしまうのですから、本心は「こんな仕事はやりたくない」
そう思う気持ちは 誰でも同じだと思います。
そんな気持ちを察する施主。尚且つ、それに応えようと道具を手にする職人達は
どんな気持ちだったのでしょうか? この旦那のためなら・・・・
あるいは 大工の意地? いずれにしても多くの道具類を犠牲にする事に値する
以上の施主との関係は 相当に深いものだったに違いないと思います。
こんな仕事や施主に巡り合う職人は 幸せだったのではないでしょうか?
いずれにしても、鞆の浦での普請は大変な散財だった事が容易に想像できます。
其れに応えた職人達、現代の建築業界に身を置く一人の建築屋にとっては 何とも羨ましい仕事を見る事ができた「鞆の浦」探訪でした。
6、さいごに
上記 写真-4で紹介した小庇の取り合い部分のあの金物の意味についての説明が残っていました。これには訳があったのです。
この事は 澤村舩具店の現店主より直接その訳をお聞きしましたので 簡単に説明して筆を置かせていただきます。下の写真をご覧ください。
昔から、ここ鞆の浦には大店が軒を連ね大変に栄えた港町でした。
その為、盗難を恐れた店主達は 夜間に賊が(二階に忍び込む事を恐れ、賊が足を掛けると簡単に回転する小庇を設置したのです。賊がこの小庇に足を掛けると簡単に小庇が回転(落ちて)して賊を二階に上げることができない仕組み。こうする事で盗賊を退散させる、
そんな防犯上の知恵がこのような簡易の仕組みを作り上げたのです。
その為に 敢えて華奢な小庇に作ってあるとは・・・・ 何とも凄い話です。
沢村舩具店の店主から直接お聞きしたこぼれ話でした。 (完)