1,はじめに
今回は 古代から続く形態が名詞になった「地元に愛され大切にされてきた史跡」を
紹介します。
取り上げる史跡は 東日本から1箇所、中部日本から1箇所 西日本から1箇所の合計3箇所をピックアップしてみました。
これらは 何れもその形態からネイミングされたものです。事実その場所に立つと
古(イニシエ)人が 呼び習わしてきたその名前に全く違和感を持つ事無く、「成る程!」と
自然と納得してしまうのですから不思議です。
2, マイマイズ井戸について
大昔から、武蔵野台地に数多く掘られていた井戸の一つの形態です。
この説明だけでは 理解できないでしょうから 先ずは写真を見てください。
写真-1 これは、本物の井戸です。
地盤面から水を汲むためにぐるぐると螺旋状に設けられた小路を通って地下に降りて行くと一番深い処に水をたたえた井戸があります。
(地中に見える井戸は更に垂直に掘られている) 地上から見下ろした写真
写真-2 現在でも不浄を嫌い、神聖な処として地元では 今も大切に守られています。
2010年5月12日撮影:児玉博文
「マイマイズ」とは 関東では「カタツムリ(蝸牛)」を表します。
この井戸と、そこに至る螺旋状の小路を真上から見下ろした状景が「カタツムリ」の殻の渦巻きと同じだと思いませんか?戦後暫く、武蔵野にはこの様な形式の井戸が各地に残っていました。同様の形式を持つ井戸は東京都の多摩地域や狭山(現在の埼玉県西部)・両毛地域(現在の群馬県と栃木県)、少し離れた伊豆諸島にも見られたと云われています。「マイマイズ井戸」の「まいまいず」は 「武蔵野の枕詞」として平安時代には既に広く知られていました。
他にも「ほりかねの井戸」とも呼ばれています。因みに「堀兼井(ホリカネノイ)とも書かれ、読みは「ホリガタイ」と読ませている地域も有りました。
場所:東京都羽村市五ノ神一丁目一番地 五ノ神社境内 鎌倉時代(東京都指定史跡)
因みに、羽村市には江戸時代に行われた一大事業「玉川上水」の集水口があり、ここで多摩川本流から集水された清水が遠く江戸の城下まで引かれています。現在では、この堰と取水口まわりや水路の両脇の土手に数え切れないほどの桜が植えられ見事な桜の帯やトンネルになっています。春先には地元は勿論のこと、都内からも花見客が押し寄せる「花見のメッカ」となっています。
3, ギリギリ山古墳について
ここで紹介する古墳は 四世紀中~後半に築造された「前方後円墳」です。
場所:岡山県岡山市北区尾上 国指定史跡 正式には「尾上車山古墳」と呼ばれています。
地元では古くから「ギリギリ山古墳」と呼ばれて 子供達の遊び場となっていました。
この古墳の位置は 古代吉備国の中心に位置する「吉備の中山 注-1」と呼ばれる丘陵の東南にあり、古代の大首長墓とされてきました。
では「ギリギリ山」のギリギリとはどんな意味があるのでしょうか? 上記しましたが
「吉備の中山丘陵の外れ」に位置する事から「ギリギリに外れた処」等と解説されることもあります。
写真-3 「尾上車山古墳」前方後円墳 前方部より後円墳を望む
後円墳が三段に重ねられている事が判る。但し、後円墳の各段は螺旋状に繋がっており、
前方部から後円墳の段部分を歩くと、三周で頂上部に登る事ができる。
(後円墳の右側に見えるスロープは後世、最短距離で頂上部に登る際に付けられたもの)
2017年1月28日撮影:児玉博文
この後円墳部分を仮に真上から眺める事ができたなら、「つむじ」に似ていると思います。西日本の方言には特に「つむじ」の事を「ギリ」と呼んでいますから「ギリギリ山」とは
「つむじ」の形状を現すのではないかと考えています。但し、阿波(徳島県の一部)では、つむじの事を 「まいまい」と言う処があります。
「尾上車山古墳」について話を進めます。尾上は明らかに地名ですが問題は「車山」です。
一般に「車」は車輪のイメージから「丸」を表す事が多く、この場合も 後円墳の丸を
表す言葉として「車」+「山=墳墓」で「車山」と表しているのではないかと 私は考えています。
4, 丸を表す言葉「車」と「車田」について
我国には 幾つか「丸い田圃」が古(イニシエ)より現代まで残っています。
代表的な車田(くるまだ)と呼ばれる丸い平面を持った田圃を紹介します。
有名なものとしては 下記の3つが特に有名です。
① 岐阜県高山市松之木町
② 新潟県佐渡市北鵜島(キタウシマ)
③ 岡山県加賀郡吉備中央町豊野 (地元ではゆりわ田と呼んでいる)
何れも 由緒正しい古(イニシエ)より続く田圃です。
ここでは飛騨高山「飛騨の里」に松之木町の車田を復元したものを紹介します。
場所:岐阜県高山市上岡本町 1-590 飛騨民俗村「飛騨の里」
写真-4
伊勢神宮に献上する神饌米を作る田と云われ、車輪の形のように同心円に苗を植えている。
2011年6月12日 撮影:児玉博文
5,さいごに
古代から現代に至るまで 連綿と継承されてきた史跡や習慣或いはシキタリが 今、この瞬間にも消え去ろうとしています。しかも大量に・・・・。
安直な「ミニ開発」や「軽薄な思いつきの計画」によって 実に多くの遺跡や史跡が無造作に消えて行ったのです。これらが一度途絶えると再生は到底不可能なのです。
こんな 何でもないような物も 我々日本人が後世に伝え残さなければならない「物、或いは心」なのでは無いでしょうか?
それこそが後世の人達にとっての「文化」なのですから・・・・。 【完】
写真・文責:児玉博文
2017年6月9日書き下ろし
注-1:「吉備の中山」とは 古代吉備国の中心地に位置する 丘陵地を表し、
旧備前国と旧備中国の国境線はこの吉備の中山を貫いて引かれている。
また、北西の山裾には 旧備中国一ノ宮である吉備津神社が鎮座し、
同じく北東の山裾には 旧備前国一ノ宮である吉備津彦神社が鎮座する。
両社の直線距離は 僅かに1.2km程の近さであり、律令制時代の我国の
他国の一ノ宮との間隔(距離)としては異常に近く、他には見られない特徴
である。