写真・文責:児玉博文

1、      はじめに

現在、岡山県下には2つの国宝建築があります。

一つ目は 吉備津神社本殿、 二つ目は 旧閑谷学校の講堂です。

今回は 明治期に行われた旧閑谷学校の新設門増築工事の石塀改修部分に発生した(不動沈下による)石組の乱れが顕著になった為(写真-3)平成26年から同27年に掛けて修復工事がなされました。その時の資料を基に国指定特別史跡 閑谷学校の諸施設の中から 独自の意匠で圧倒的な存在感を示す国の重要文化財「石塀」の構造とその魅力について自説を交えながら筆を執る事にします。    写真-1 -2 -3

 

2、      その前に「囲む」について考える

人間は己の周りを囲む事で「安心感」を持つ事ができ、何かから大切な物を「守る」事を実践してきたのです。  何かからとは 恐らく二つの事だと思います。

・一つ目は 精神的な心の拠所(ヨリドコル)として  写真-4 -5 

典型的な例は 神への畏敬感だと思います。地鎮祭を執り行う時には 其の場所

には何も無い状態で神を向かえる事になります。その為、神に降って来て貰う為の場所には「特別の設(シツラ)え」を施します。例えば、神を招くにあたって周囲に玉垣を巡らして囲い、或いは 注連縄(シメナワ)で囲うことで 臨時に神を迎えるための依代(ヨリシロ)を作ります。 古くから日本人はその場所を神籬(ヒモロギ)と呼んでいました。これは「精神的な特別の場所」を意識させる最も簡単で効果的な手法だったのです。

・二つ目は 財産を守るバリアとして   写真-6  -7

  最も判りやすいのは 防御の為の諸施設だと思います。己を守る、一族を守る、

国を守る、言い換えれば 「安心と財産を守る」為に、敵からの攻撃に耐えうる「特別の設(シツラ)え」を施してきたのです。

 

我々は 空間を区切る事で場の持つ質を変える演出方法を知っています。

他者に其の事を知らしめる目印として、財産を守る目的として、様々な工夫と演出を試みて来たのです。

その結果、編み出された手法が「囲む」事だったのではないでしょうか?

 

3、      囲む技術と工夫の跡

国指定特別史跡 旧閑谷学校の諸施設の中でも取分け耳目を集める施設が 石塀ではないでしょうか?優美な蒲鉾型の曲線を持つ石塀は 他では見られない独特の形状とその施工精度で 観る者に強いインパクトを与え続けています。

石塀は校門の左右から学校全体を取り囲んでおり、幅約1間 地盤からの高さ

2m、岩の合端を緻密に積み、蒲鉾(かまぼこ)型に仕上げています。(椿山を含む総延長 846m)約310年を経た現在でも草一本生えていない事は一目瞭然、その精度と加工技術そして合端(アイバ)の隙間から草さえ生えていないその構造、一体何故そんな事が出来るのでしょうか・・・・・・

読者の皆さん不思議だと思いませんか?

解体した状況と その修復・復元状況の写真を見てください。写真-8 -9 -10 -11 -12

石塀の中には大小の石や石屑が充填され、草木が根を張れない環境になっているのです。また、埋戻時に土を入れていない事から 長い年月を経ても圧密による体積の減少も無く、また、栄養素も無い。また、石と石の繋ぎ目〔会端〕が密な為に、ここから射し込む太陽光線も極端に少ない・・・・・

こうして草が生える条件をことごとく潰しているのです。

 

4、      さいごに  ~伊達政宗築城の「仙台城(別名 青葉城)の石垣について~

本来、城郭の石垣は はじめから草木が生えないように作られているのです。

何故なら夜陰に乗じて敵が攻めてくる際に 石垣に草木が茂っていると其の影に姿を隠す事が出来るからなのです。熊本城や皇居西の丸、或いは大阪城跡の石垣には草木は生えていません。木々の根が張れば 当然石垣の石組が緩む事になり、やがては石垣の崩壊を招く事に繋がるからなのです。単に美的感覚からそうなっているのではないのです。実利としての目的で、最初から草木が生えないような 造りにしているのです。青葉城の石垣を紹介しましょう。写真-13 -14 -15

ここでは、大名家としての実力を示す目的から江戸城と同じように「打込み接ぎ(うちこみはぎ) 注-1」による石垣の築造がなされています。その石の積み方を裏側から見たのが写真-14 -15 です。但し、手入れを怠ると草や蔦の類の枯れた根に黄砂や埃が土となり石垣の継目から草木が生えてきます。

全国には数え切れない程多くの城跡が残っていると思います。しかし、その多くは手入れもされず、生い茂った草木の根が張ることで石垣が崩壊した事例は数知れません。崩れ始めた石垣の修復には 莫大な費用と時間を要すことになります。

我々の先祖達が築いた貴重な文化遺産として 少しでも早く整備されることを願って筆を置きたとおもいます。

                                   2015516日(記)

 

注-1: 表面に出る石の角や面を叩いて平滑にして石同士の接合面の隙間を減らして積み上げる方法で費用を要すが 重厚さがあり江戸時代に盛んに用いられた。

野面積みより高く、急な勾配が可能になる事も その主な理由でもあった。

写真-1 旧閑谷学校全体写真

  

春先の旧閑谷学校

 

写真-2 旧閑谷学校石塀

火除け山の裾野を通り資料館へ抜ける通路 

 

写真-3 

    

石塀(国重文指定)の不動沈下により、石の合端の隙間が広がっている

その工事現場の施工状況を紹介すると同時に「石塀に何故草が生えないのか?」疑問について考えてみたい。

 

写真-4  佐賀県「吉野ヶ里遺跡」 精神的な心の拠所(ヨリドコル)として

 

幾重かに掘られた堀に囲まれた空間に 最も重要と思われる政(マツリゴト)の中心地あるいは祭祀跡と思われる建物が復元されている。

 

写真-5  旧摂津一宮 住吉大社 境内 精神的な心の拠所(ヨリドコル)として 

手前 第三本宮本殿(国宝)

境内にある四柱を祀る各本殿は結界を意味する囲いで囲われ、聖と俗を分けて区域を限っている。(旧官幣大社)

 

写真-6  佐賀県「吉野ヶ里遺跡」  生命と財産を敵から守るバリアとして 

  

写真-7

集落を取り囲む堀の深さは平均3m 外敵から守る為の防波堤として延々と続き、外堀で囲まれた面積は 実に40haに及ぶ広大な「環濠集落」となっている。ここに立つと戦いに

備えた重装備が眼前に展開し「魏志倭人伝に記された和国大乱(ワコクタイラン」を髣髴とさせる。

 

写真-8 石塀解体修理の状況

写真-9  復元工事に伴い連番を付けている 

 

写真-10 天石部分を嵌める直前の状況

 

内部には一切土を入れていない。

総て大小の石材で充填されている。細かい石屑は加工時に出た屑材で満たされている。

屑石等はその総てが内部に充填されたものと考えられる事から「究極のエコな工事」と

いえるのではないだろうか?

 

写真-11 石塀胴体部分の修復状況  

泥分が無ければ草は生えない。

芯の部分に幾らかの泥分が見られるが 太陽光線が当たらないので草木が芽吹く事もない。

 

写真-12

見事な合端(アイバ)の納まりに脱帽!!

 

写真-13  仙台を代表する伊達政宗の銅像 

仙台城は現在の仙台市青葉区にある平山城で別名「青葉城」とも呼ばれている。

 

写真-14 青葉城の石垣 打込み接ぎ(うちこみはぎ)」 

写真-15                 

写真-16

石垣の裏面には玉石・割石・屑石で埋戻され 石垣を築造している。

(土は外周をこれらの石垣に囲まれた内部に盛られている)