死への心構えが出来ても、エンディングノートを書き終えても、自分の「死に様」には不安が残ります

誰も経験に基づいて教えてくれないからです。要は教えてくれる人は亡くなっているはずだからです。


そう言った不安が様々な死生観を形成し、宗教に結びついたと個人的には考えています。

ただ、現実的には、もっとレベルの低い「今そこにある痛みなどの物理的プロセスとでも言うべき苦しみ」が不安でなりません。マズローの5段階欲求は成長と共に高次に進むけれど、私のような凡人の終焉に向けては低次に還ることを悟りました。





何年か前に無神経な週刊誌が死ぬ時の苦しさランキングを記事にしていました。商業的に過ぎる薄っぺらいものでしたが、人は必ず死ぬという前提に立った筆者の主観がないと感じられました。


安楽死や終末期医療態勢についても同様で、健康な時の私も含めて第三者的に考えてしまうことが多い気がします。安楽死関連裁判もありましたが、ほとんどの人の意見として、安楽死について肯定的だったと記憶しています。適応の厳格な運用はなされる前提においては選択肢として認められるべきであると。

ただ、今一つ、広く終末期医療態勢の整備も含めて法制度化などの議論が盛り上がりにかけています。健康な方は死をネガティヴに捉えるがあまり、遠きに置いておきたい問題ですから。また、死に直面した当事者となる方々は、その多くが票に結びつかない声なき者ですから、政治家や行政の腰も思いですし。

介護者が間接主体となって社会問題化した介護問題とは違いますね。


あ~、副作用で体調が悪いと独り言も暗い~𓀤