娘がこの4月から小3になりました。
娘の幼稚園入園時、小学校入学時、2年生の進級時、その都度、自分の場合はどうだったかなと回想してきました。そして今回も同様に、小3の頃の自分や周りの出来事を順不同に思い出していました。

私が小3の頃、学校でいろいろありました。 
最初に担任になった先生(女性、たぶん30代、独身)が、授業中に騒がしかった男子の耳を掴んで上に引っ張ったら、その部分が赤く腫れ、先生の爪があたった所が切れたりして、その男子も涙目で痛がり…ということがあって、それが問題になり、学校から追放されました(詳しい処分は忘れましたが、それから数日後から来なくなりました。それが6月頃)。その先生、いま思えば、感情的で癇癪持ちな感じで、それを抑えきれないようでした。少し高めの声で余裕のない話し方、適当な授業(私にはそう見えた)、子どもながらに見ていて不安になっていました。最初の席順も、他のクラスだと男女が机を着けて隣同士なのに、私のクラスでは、その先生が児童に好きに決めさせて、男子2人、女子2人が隣同士の席ばかりになりました。担任不在になったため、1学期終了までは教頭先生が担任代行となり、授業を受けもってくれました。約一ヶ月と短期間でしたが、追放された先生の授業のやり方とは天と地ほどの違いで(とてもわかりやすく、穏やか)、ずっと教頭先生の授業を受けたいと思うほどでした。授業だけでなく、一例を挙げると、クラス内でバッチをしていない子が多かったのを着用率100%にしたり(バッチをしていない子一人一人の理由を聞いて、失くした子の分は新しく用意してくれたり…)、その他乱れていたことをほぼ改善してくれました。

一児童(私)の希望(教頭先生にこのまま担任になってほしいという)など通るはずもなく(声をあげることもしなかったけど)、2学期から、新しい担任の先生になる人がやってきました(男性、5〜60代くらい)。こうして書いているからには、その先生も???という感じだったのです。

その先生(以下A先生)、
国語(漢字だけ)と算数、体育は普通に授業をしてくれたのですが、それ以外の時間は、自由研究と称して、各自に2つに折ったB4サイズのわら半紙に研究?(勉強?)したことを書かせて(大半の子が理科や社会の教科書の中身を書き写していた、私も)、100ページごと(50枚)に、穴あけパンチを使って紐で綴じさせていました。枚数が多ければ多いほど良しという基準だったので、当然、大きい字で書けばすぐにページ数は進むので、やはり大半の子が、最後の頃には字が大きくなっていました。これって自由研究なの?勉強なの?そもそも授業じゃないような…と思っていましたが、自分にとっては意外にラクだったので、違和感がありながらも黙っていました。

以下A先生の特徴や出来事が続きます。

・何にでも節をつけて歌い始め、特に小林一茶の歌をよく歌っていました。だからか、私にとっては、小林一茶=A先生なのです。いまだに、どちらかを思い出すとどちらかを思い出します。そして、小林一茶やその他の歌でごまかされていた気がします。

・冬の寒い日、朝の会の時に、児童の席をまわって、一人一人の手を自分の手で包んで温めてくれました。いま思うと気持ち悪さしかないのですが、その時の私は(他の子も)、あったかーい!と言って喜んでいました。

・上記のような授業でしたから、通知表の成績のつけ方も適当、自分(A先生)のお気に入りの子だけに良い点をあげているようでした。

体育の時、私は5段の跳び箱を跳ぶことができ、可愛いYちゃんは引っかかって跳べなかったのです。なのに、通知表(2学期)の体育、私は「2」、Yちゃんは「5」でした(小耳に挟んで知りました)。跳び箱だけで成績はつけないだろうけど、そしてYちゃんの方が走るのも速いけど、私だって跳び箱以外も特別悪くないし、5段の跳び箱跳べたのに「2」ってことはないよね!とショックで、通知表見た母にも、「体育「2」だってアハハ…」と笑われ、でも先生に抗議なんて出来なくて…
他には、3学期の最後、修了式の日、通知表をもらった後に可愛い子たちが2人で抱き合って喜んでいました。どうしたのかな?と思って見ていたら誰かが、「あの二人通知表がオール5だったんだって」と言っていました。その時の私の思いは、

『その2人のうち1人はオール5で文句ないけど、もう1人は私より成績悪いはず。ずるい。可愛いだけで良い成績もらえるなんて。A先生、やっぱり可愛い子ひいきしている。』
というものでした。今は、もうどうでもいいのですが(と言いつつ書いているけど)、本当に冷静に考えて、クラスの中に2人もオール5をあげてしまったら、他の児童は正当な評価など(する気もないのだろうけど)受けられなくて、私もその時の成績が一番悪かったように記憶しています。現に4年生になったら、体育が1年間ずっと「4」でした。

・A先生、可愛い女の子が大好きでした。←さっきから言っていますが。 
A先生、4年生からは別の学校へ行ってしまいましたが、私たちが6年生の2学期から(また中途半端な時期に…)異動してきました(産休などの代替教員だったかもしれません)。その異動してきた日のことです。放課後、どこのクラスも帰りの会が終わった直後の時間に、2年生の担任になったはずのA先生が3階にある6年生の教室の所までやってきていました。満面の笑みで、3年生の時に私と同じクラスだったA先生好みの可愛い子たち5人くらいの子の名前を言いながら探していました。各教室の戸の所に立って「〇〇さん(可愛い子たちの苗字)いますかー」といった具合に。今想像してみると、おじいさんみたいな先生が、忘れられない可愛い子たちだけの名前を呼びながら教室の前を探し歩く…傍から見ていて奇異でした。「えっ?」て。でもその時の私にはそれを楽しそうにも見えてしまい、自分を覚えているか聞いてみたくなりました。そして「A先生…」と言って近寄ってみると目の前の私には目もくれず、でも話してきて…


A先生「あっ、Sさん(4年生の時に転校してしまった、可愛いうえに頭の良い子)って(6年)何組だかわかる?」
私「4年生の時に転校したんですよ」
A先生「あー、残念だなー、会いたかったなー」 ←気持ち悪い

そこで私が
私「先生、私のこと覚えていますか?」
A先生(満面の笑みから一瞬真顔に戻り)「いや、覚えてない」
とバッサリ切り捨ててきました。私、普通に傷つきました。でも今となっては、その方が良かったです。仮に私がA先生好みの可愛い子でベタベタ近づいてこられたら、そっちの方がイヤな思い出になっていたと思います。

A先生、早い話が〇リコンだったのでしょう…

殆どA先生の話になりましたが、
小3の頃は

・イマイチだと感じた先生が問題を起こして早々に退職
    ↓
・その後、約一ヶ月、教頭先生が担任代行となる
    ↓
・2学期から、A先生がやってきて違和感だらけの行動をする

という何とも落ち着かない1年でした。でも、A先生のこと、当時はうっすら違和感を抱きつつも、「歌ったりして変わっているけど愉快な、手を温めてくれる先生」などと、好意的に思っていました。でも、4年生以降、「やっぱり変な先生だったし、何で理科や社会の授業をしないで自由研究させるの?」と、年々違和感が強くなっていきました。

そのようなわけで、小3って、(大人からの)ごまかしがきくギリギリの年代ではないかと、当時の自分の体験から思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。