人を好きになるって、残酷なことだと思わないか?


そりゃ、うまくいけば最高の幸せをつかむことができる。


でも、うまくいかなかったら・・・




俺はかつてこんなに人を好きになったことがあるだろうか。


2人前の彼女と別れた時、この世にこんな不幸があるだろうか、とは思った。


およそ半年も引きずってしまった。


しかし、それは一種の盲目だった。初めてセックスをした相手ということも大きかった。


しかし今回は違う。


初めて自分がその人間を好きになったと思った。


こんなに話が止まらなくて、逆に沈黙があっても何ともない。


だから一緒にいてすごく楽しい。


セックスをしたいとかじゃない。


ほかの誰かに奪われないように、ただただ、自分だけのものにしたい。


こんな気持ちは初めてだった。


これが、本当の意味で、人を好きになる、ってことなんだって思った。




うまくいくかと思った。


一度はフラれたけど、頑張って想いを伝え続けていたら、向こうも大分揺らいでいた。


しかし、それも束の間だった。


一度フラれた直前にあったときのごとく、また始まった向こうの拒絶姿勢。


「今は話したくない」と。


追ってしまう自分。


関係は最悪。


時間をおいてようやくマシなくらいまで修復はした。


そして俺はとにかく、「待ってる」と。


そして先日きたのが「今度ちょっと話がある」。




話って何だろう。


俺は最後に、「少なくとも、俺が3月でバイトを辞めてからも、君とはちょくちょく遊べるような仲になりたい。」としか言っていない。

つまり、付き合ってくださいとは一言も言っていないんだ(そういう時期ではないと思ってるから)。


これを断るために話があるというのも変な話だ。


だとしたら、色々考えたけど付き合おう、っていう最高の展開?


素直に考えればそうなる。


それとも・・・


もうほかに好きな人がいるからそういう関係さえも、、、とか?




前者なら、最高の幸せをつかむことができる。


後者なら、最悪の不幸を背負うことになる。




もう待ってることにも限界を感じてきた。


気が変になりそうだよ。


好きすぎるんだ。




人を好きになるって、残酷なことだと思わないかい?

テレビでやってたので、いじめ問題について少々。

以下は、まったくもって自分なりの考察と意見であって、決して何か文献を読んだり講義を聴いたりしたわけではないので、あらかじめご了承ください。いつもながら、こんな見方もあるよ、程度に思っていただければと思います。




 なぜいじめは起きるか。それは、人々に団体意識のようなものがあるからだと思います。

 人は群れたがります。独りでいる方が好きと言う人だって、周りに友達がいれば友達といるときの方が多いですよね?

 逆に、人が一番こわいもの。それは、群れから外れてしまうことです。みんなで仲良くやっているところに入れないのは、とてもみじめな思いになります。つまり、人は、周りが群れているところに入れないことを苦痛に思うのです。

 そして、苦痛を避けたいと思うのは人間の本能です。苦痛を避けるために、群れなければならないし、群れに入らなければならない。じゃあどうしたら群れることができるか。

 共通意識を持てばいいのです。趣味が同じ人と話が合うように、他人と共通の何かがあれば、そこでつながるきっかけがうまれます。そして団体に参加できるのです。

 では共通の何かとは一体なんなんだ、ということなのですが、これはもちろんさまざまに考えられます。しかし、小中学生に、数人の同級生と共通意識をもてるものとなるとなかなかありません。僕が小中学校のころといえば、やれポケモン、遊戯王カード、などなど。しかしそれは一時のブームしか乗り越えられません。長続きできる共通意識とは一体何か。答えは明瞭です。

 人をいじめればいいのです。

 人をいじめることは、気持ちが良いものなのです。自分が優位に立った気になれますからね。そして自分が優位であることを他人にみせつけることができます。罪悪感はあるでしょうが。それを超えるものがあるのです。そして、ターゲットをしぼり、群れでいじめれば、そこに一つの共通意識がうまれます。そして、いったんもってしまった共通意識から離脱することはとても困難です。出るに出れないのです。共通意識はそこにしかないのですから。離脱は、イコール今度は自分がターゲットになることを意味するのです。だから続けているうちにどんどんエスカレートしていく。

 このように、泥沼のいじめができあがるのです。多分。



 ぼくは中学生の時若干いじめられたことがあり、不登校になりました。

 まあ、テレビで報道されるようなビーなものではなく、今考えれば非常にライトなものだったなあ・・・とは思うのですが。

 むしろ、それまで僕は群れていじめている側でした。しかし、罪悪感に耐えられなくなり、やめました。それまで   僕の仲良かった友達がターゲットになってしまいましたからね。

 そして僕がやめたことにより、ターゲットが僕になりました。

 そして僕は逃げました。



 では、いじめをどう解決すべきか。

 いじめをなくすことはまず不可能とって良いでしょう。1クラスに30人超の生徒がいて、浮かない奴が1人もいないなんてなかなか無いでしょうし、子供に「いじめるな」という道徳教育をちょっとやったって、絶対にいじめはなくなりません。


 私の意見は、「逃げ道」を作ってあげることだと思うのです。


 僕はさっさと逃げました。いわゆる保健室登校(の、ようなもの)をさせてもらったのです。そのまま学校に行きつづけ、仕打ちを受け続けるなんて考えられなかったので、このような配慮をとっていただきました。

 そして、逃げたことによって苦痛から解放されました。学校には特別措置を取ってもらいえらい迷惑をかけましたが、おかげで高校受験にも集中でき、ぼちぼちな高校に入学できました。

 このように、苦痛から解放されれば、すくなくとも「死にたい」なんて思わないでしょう。自分を変える準備もゆっくりできます。


 しかし、僕のように簡単に逃げられない子がどうも多いようです。

 逃げる、すなわち自分がいじめられているのでぜひ助けてくれと打ち明けることなんですけど、それができない子が多いらしいのです。

 原因は以下の通りだと思います。


 自分がいじめられていると親に言う。

 すると、親は学校の事情なんて知らないからとりあえず学校に相談する。

 学校、動く。←ここです。


 動くって、結局が事実関係を確認するってことで、それは「告げ口」がバレることにほかならないことです。そんなことしたらいよいよ泥沼にハマる。

これこそが子供の恐れていること。少なくとも僕は、これが一番怖かったし、僕はこれによって逃げ続けることになりました。あらかじめわかっていましたが、逃げ続ける方が楽だと思ったがゆえの選択です。


 さらに、泥沼にハマらせたところで、親と学校はぜひとも元通り普通に学校に通わせようとする。

「頑張れ」

「頑張れ」

「頑張れ」

 大人からのプレッシャー。戻らなければならないというプレッシャー。


こんなんじゃ解決しませんよ?

こんなことになるくらいだったらまだ現状を維持し続けた方がマシです。

だから子供は言いだせない。


逃げる場所を作ってあげるべきなのです。

そして、逃げてもいいことを、教えなければならないのです。

横浜強盗殺人事件で、裁判員裁判初の死刑判決が出ましたね。

まあ二人殺害で殺し方も残虐だったとのことなので、まぁそうだろうな、という感じですが・・・



ともあれ、裁判員制度が導入されて国民の刑事裁判に対する関心が高まったことは大きな意義があると思います。

僕が一番怖いのは刑事裁判が国民にとって無関心となることです。裁判や死刑はお偉いさんがやるもの、というような。そのような事態こそ、被害者も加害者も、ひいては日本国民の誰もが救われない事態なのです。


あ、これが言いたかっただけです。おやすみなさい。