全国には、
映画やドラマの主人公として、登場する有名な戦国武将は大勢いる。
私の暮らす鹿児島では、
やはり、“ 鬼島津 ” の異名で恐れられた、島津 義弘(よしひろ)の人気が高いだろう。
そんな、
義弘の初陣は、19歳の時だ
その戦場となったのは、
鹿児島県姶良市平松の岩剱(いわつるぎ)山。
地元では、
この辺りを “ 重富(しげとみ) ” と呼んでいる。
岩剱山の三方は、切り立った崖になっている。
(白銀森林公園から撮影した 岩剱山)
戦の原因は、
1552年(天文21年)
義弘の父・島津 貴久(たかひさ)が、島津氏第15代当主として正式に、三州( 薩摩・大隅・日向 )の守護職を任じられた
そのことに、
不満を持つ有力者が、島津氏に反旗を翻した
見渡せば、
貴久が平定しているのは、薩摩半島中南部のみ
どうにかして、
三州を統一しょうとするが、鹿児島市に隣接する姶良市で足止めをくらう
時は、戦国時代
島津氏に、蒲生(かもう)氏と祁答院(けどういん)氏が、手を組んで対抗したからだ。
抵抗勢力は、
姶良市蒲生町や薩摩川内市祁答院町と、地名になっているほどの実力者だ
姶良市の
岩剱山には、蒲生氏の山城 “ 岩剱城 ” が築かれている。
1554年(天文23年)
貴久は、“ 岩剱城 ” を攻めた
“ 岩剱城 ”の断崖は、
攻め登るのが困難なうえ、空堀(からぼり)で行く手を遮られる
なかなか、
落城しない “ 岩剱城 ” の麓には、「岩剱神社」が佇んでいる
貴久の目には、
『山城は、神社に加護されている』
と映ったのだろう👀
なんと、
「岩剱神社」の御神体を島津氏が、陣を張る “ 白銀(しらかね)坂 ” へ移してしまった
そして、貴久は、
『この戦いに勝利できたなら、毎年例祭日に、神舞を奉納しましょう』
と願をかけた
“ 岩剱城 ” が、
陥落すると、御神体は神社に返された
義弘は、
誰もいなくなった “ 岩剱城 ” の城番をすることになった。
岩剱山の近くに、
平松城を築造し3年間、城番を勤めた🏯
現在、
平松城跡には、重富小学校が建っている
今でも、
小学校の周りに、平松城の石垣が残されている。
勝敗を分ける鍵となった、
「岩剱神社」は、国道10号線の重富郵便局前交差点から、少し入った所にある
神社の入り口には、
風情のある石橋が、架かっている
この橋は、
江戸時代末期(1849年・嘉永2年)に、建造されたものだ。
1993年(平成5年)8月の
大水害で一部破損・流失したが、翌年に修復された。
(石橋:長さ4.66メートル・幅2.16メートル)
石橋を渡り
鳥居をくぐると、真正面に拝殿がある。
拝殿は、
朱色というより赤っぽく、漆黒の瓦が屋根を覆っている。
- 大己貴命(オオナムチノミコト)
- 保食命(ウケモチノミコト)
山肌が、露わになった所があり、怪我をしているように見える
だか、傷を負っている訳じゃない
この山に、刻まれているのは
きっと “ 兵どもが夢の跡 ” だろう
最後まで、お読みいただきありがとうございます🙇🏻♀️
それでは、また