幸せって、何だろう?
最近、幸せとは、何だろうって考える時がよくあるし、他人に聞かれたりもする。ただ、こういう時、幸せとはこうだってな具合で他人に教え諭すのもおこがましいし、そもそも自分が幸せとは何であるか知っている自信もない。でも、他人は、自分をみてよく「お前は幸せそうだな~」ってつぶやくんだ。何でだろう。
当然であるが、大学で大学生を目にする機会はたくさんある。でも、自分は彼らが「幸せそうだな~」と思ったことは一度もないし、彼らみたいになりたいとも一度も思ったことはない。なぜか彼らを見ていると、ある種の違和感みたいなものを感じてしまう。それは自分が彼らに馴染めないということもあると思うが、それ以上に何かしらの空虚さ、閉塞感、それに何かに去勢された感じを、彼らを見ていると感じてしまうからなのかもしれない。大学内では、彼らは決まって集団で行動し、集団でいる時は高揚感と多幸感を感じているからなのか活発で、自分を出すことに一生懸命なのに、一方、一人の時は無気力で非活発的、自分の意見を人前で言おうなんてつゆにも思わず、なるべく自分の個性を消すことに集中する。政治に関して、彼らは無責任と無思考を決め込んでいるのに、いざ、匿名性のコメントペーパーかなにかで政治信条を問われれば、ネットで見た右派的な言説を取り上げて周囲を驚かすのである。ただ、それを人前で堂々と発言することは一切ない。こういった矛盾をいかに理解すればいいのだろう。自分は彼らがよくわからないし、理解できない。そして彼らを見ていると、決まって感じるのだ。「彼らは不幸だな~」って。
ただ、上にも書いたけど「幸せって何?」って問われれば、彼らのおかげで一つ決定的なことがわかったのだ。それは彼らの反対が、僕の思う幸せだったってこと。つまり、自分軸をもつということかもしれない。生きる上で一番重要な自分の幸不幸を、周りの人、周りの人の価値観、名誉、地位、金銭に委ねないということ。自分が快か不快か、自分が好きか嫌いか、自分が面白いのかつまらないのか、楽しいのかそうでないのか、気持ちいいのかそうでないのか、といった具合に、自分を主語にして考えることが大事なのではないか。脳科学者の茂木健一郎が言うには、結局、宇宙は熱的死を迎えるという。そうなれば自分はもちろんのこと、他人も、本も、過去の偉人を伝える遺跡も、そして地球も、なくなってしまうということだ。だったら、他人に合わせて生きるのは実にもったいない。生をこの上なく浪費している。
何度も言うが、結局自分がどう思うのか、そこが重要だと思う。だから他人から認められないような価値観があってもいいし、認められないからと言って卑屈になる必要もない。自分は自分で良い、そう思えたら、ちょっと生きやすくなるし、息もしやすくなる。僕はそれが、幸せだと思っている。