プー助から考えたこと
毎度、プー助をここでお伝えしていますが、今日のプー助はこんな感じ。
もうすっかりさなぎになる準備。色の変色具合も少し落ち着いてきました。ネタバレになってしまうかもしれませんが、基本的にアゲハチョウのさなぎの期間は、約二週間くらいだそうです。
考えてみれば、プー助と出会ったのは偶然のこと。うちのBIG BOSSが庭木(カボス)の剪定をしているとき。
「ぐぁー--!こんなところに」ってなもの。そこから観察が始まったのです。
彼(未だオスかメスかわかっていない)以前、たくさんの蝶が卵を産み付けていました。なのでもっと青虫がいてもおかしくないのですが、ここまで順調に育ったのはプー助が初めて。おそらく他の青虫たちはアシナガバチなどに食べられたのではないかと。
でも、プー助はここまで来たのです。最も大きな偶然は、彼の成長期がたまたまアシナガバチの活動が鈍る晩夏と重なったということ。他の青虫たちが、卵として産み付けられたのは初夏や盛夏。その時期はアシナガバチの活動が活発になる時期なのです。のんびり生まれ、マイペースにやっていた(主観)プー助だけ、生き残ったのです(ジーーーン)
これって、人間にも言えますよね。
僕:「いや、僕は浪人も留年もしているから、早く就職しないと」(補足:私リアルプー太郎、浪人歴、留年歴あり)
ある人:「君は自分の夢をあきらめるのかね?」
僕:「ええ。」
ある人:「君は人生にでも遅刻しているのか?それとも、人生に忘れ物かね?そんなに急いでも何にもならないよ。僕は十浪しているけど、今じゃ全然関係ない。むしろいい経験したというくらいだ。人生は70からだ。いい夢(人生)を見たまえ。」
その人は、私の人生の途上で欠くことができないほど重要な人でした。私の未熟な議論も「ウンウン」と楽しそうに聞き、「君はまだ青い」と言って悦に入るのです。私はその人に連れられ、東北を旅する機会を得ました。有機農家さんのお話、そこの子供たち、様々な人と関りを持ちました。
旅費はすべてその人もちでした。新幹線代から旅館代、食事代も。僕以外にも何人かいたため、その額も相当なものだったのでしょう。なぜ、「その人はそういうことをしたのだろうか」と今でもふと、考える機会に度々おそわれます。多分、その人は私らが将来稼いだお金の数倍を返してもらおうなんてつまらない考えは持っていなかったのだと思っています。きっと、その人は将来の日本に投資したのです。
日本を再建するべく、さえない者(みんなブランクがある者)たちを集め、今の日本の現状を見せたかったのだと思います。そして日本はこれからどうするべきか、考えさせたかったのだと思います。
その人はよく私に「ものは、多角的に。そして長期的に」と言いました。そして「いろんなことをやってみろ」と言い、「既成観念にとらわれるな」というのも口癖でした。歴史学を専攻していた私に「それじゃ、つまらない」、「もっと畑を超え、それが社会にどう役に立つのか考えろ」と。いやはや、その人の慧眼には背筋がゾッとします。
その人とは、私の大学の教授です。
その先生の研究室で、夜10時くらいまで議論をしていたことも。楽しかった。その先生のお陰で、ものを長期的に見る大切さを教わりました。特に人生は。
プー助はのんびりのんびり生きてきました。そしてこれからもそうあることでしょう。成長する時期も、他のものよりも大分遅かった。でもそれが結果的に、さなぎにまでなったのです。
翻って、成長が早いものたちはどんどん食われていきました。現代社会みたいですね。
ま、プー助から、そういうことを考えたのです。