去る9月18日と19日、大阪城ホールにて、とある歴史的なコンサートが行われた。


B'z presents UNITE #01


と題し、


B'z × Mr.Children


という2大ビッグバンドによる対バンが行われたのだ。
そしてその模様は10月4日より配信され、鑑賞した後、あまりにも心が震えるほどの感動を覚えたのでこれを書いている。
(今回も敬称略でお届けする)

 

 

 



この夢の対バンの実現には伏線があった。
稲葉浩志による「en-zin対談」という企画で、Volalist対談にMr.Childrenの桜井和寿がゲストに迎え入れ、1時間強、興味深い会話を繰り広げていたのだ。

 

 

 


その中でコロナ禍によるコンサート実施に双方とも迷っているようで、どちらもワンマンライブを実施することにはその時点では消極的のようだった。
そしていよいよ動き出すにあたって、B'z側が「やるなら是非一緒に」とMr.Chidren側にオファーした、という流れだったと推察するし、Mr.Chidrenが快諾したのはとても自然な流れだったように思う。
だから対談から対バン発表はさほど驚きではなかったが、この30年間の歴史を改めて振り返ると、

「ありえない共演」

であり、それが実現したことに非常に胸が熱くなったのだった。
よって、こうしてすれ違いの歴史を考察してみたくなった次第である。


それほどまでに、B'zとMr.Chidrenは、すれ違い続けた30年間だった。
この2組は絶対に敵対などしていないし、メディア側も敵対させてた記憶もなく、本当に縁がなく、ただただすれ違っていただけの2組だったと感じる。

まず誰もが思いつくのが「音楽性の違い」であろう。
一言でいうなら、


ロックで大衆に受け入れられたB'z

ポップで大衆に受け入れられたMr.Chidren


松本孝弘の非常に激しくダイナミックなギターと稲葉浩志によるシャウトを交えながらの熱唱は「ロック」日本代表の立ち位置を揺るぎないものにしていた。
一方で、桜井和寿作詞作曲による優しい日本語、主張しないギターと、時に強く時に優しいボーカルは「ポップ」日本代表、という立ち位置で間違いなかった。
だからこそ、2大ロックバンド、と誰もが認める位置にいながら、音楽性としてお互いの良さを殺してしまいそうな予感さえあったため、あまり共演を望む声は聞かれなかったように思う。

しかし、音楽性以外にも、お互いの歴史を紐解けば、すれ違うのは必然と思えることが沢山出てくる。
いくつかの項目に分けて、振り返っていきたい。



①変わった売れ方をした2組~流れに身を任せたB'zと、小林武史に導かれすぎたMr.Chidren

この2組の共通点のひとつは、変わったブレイクの仕方をした、ということがある。

B'zについては、元々TM NETWORKのサポートギタリストとしてプロで活動していた松本孝弘が、歌手志望だった稲葉浩志と出会い組んだ、いわばスカウト方式で急遽組むことになった即席ユニットである。
出会って4か月後に1stアルバム「B'z」をリリースすることになるが、あまりに制作時間をかけることができずにお世辞にもクオリティは高いものとは言えず、本人たちもその苦労を認めている。
経験を積む中で音楽性は洗練されていくわけだが、稲葉の声質の変化の著しさ、ポップからロックテイストへの変化、など、音楽性の変化がめまぐるしかった。

このようにB'zは、現在のロックの音楽性にたどり着くまでに、ポップに寄ったり、洋楽から影響を受けてみたり、歌詞にインパクトをもたせるのを試してみたり、かなりそのときの試行錯誤が音楽に反映されていると感じ相当な紆余曲折があったことがうかがえる
B'zはユニットとしての在り方を模索している中でブレイクし、売れ続けながら音楽性を確立させていた印象がある
ポップかつ打ち込み主体の「BE THERE」「太陽のKomachi Angel」などは、今聴くと別人が歌っている、あるいはつくっているかのような錯覚を覚えるほどに、音楽性が今と違う。
初期のB'zの音楽は、ポップな音楽を好む方はハマるかもしれないので是非聴いてみてほしい。


Mr.Childrenについては、インディーズバンドとして活躍していたところ、当時サザンオールスターズのプロデュースを手掛けていた小林武史氏が「まっさらなバンドをプロデュースしてみたい」というところから見いだされデビューに至る。
小林武史氏の手腕については、レミオロメンやback numberなどブレイクのきっかけをつくり続けておりプロデューサーやアレンジャーとしての才能については言及するまでもない。
ただ、Mr.Chidrenほどプロデューサー小林武史氏が介入したバンドは他にはないのもまた、事実である。

たとえば2ndアルバム「KIND OF LOVE」から4rdアルバム「Atomic Heart」までは、作詞作曲で桜井和寿と共作の曲が多く、Mr.Chidrenをメガヒットに導いた一方で、相当多くのダメ出しをされ、バンド内でも迷いがあったのだと推察する。
だからこそ、1996年の「深海」でダークサイドのアルバムをつくったかと思えば、「歌うべき言葉さえも見つからない」(Everything)と1997年には人気絶頂の中活動休止してしまう。
1998年に活動再開するも、小林武史氏との距離の取り方に苦労し、迷走に迷走を重ねていたのが実情であった。

このように、Mr.Chidrenを語るうえでは「小林武史」という存在は欠かせず、「あまりにも一緒にやりすぎた」「しかしそれで売れてしまった」という複雑な事情を持った形のブレイクであった。



②ミリオン連発の90年代~黄金期のB'zと、苦しんだMr.Chidren

CD売上が人気の指標ではなくなっている昨今であるが、B'zとMr.Chidrenを語るうえで欠かせないのが、CD売上全盛期の90年代である。
90年代を終えた時点で、CDの売上がB'zが1位、Mr.Chidrenが2位、という状況であった。
さらに2組には、Mr.Chidrenは94年の「Atomic Heart」で、B'zは98年ベスト盤「Pleasure」で、それぞれ当時のCD売上日本記録を更新している、という共通点がある。(現在は宇多田ヒカル「First Love」が1位)
ミリオンセラーを連発し、その数が非常に多かったことからも、2組は群を抜いて「メガヒットバンド」という認識をされていた。
ところが、内情に目を向けると、B'zとMr.Chidrenでは、CD売上全盛期の裏で抱える思いが異なっていたように思うのだ

B'zは、前述した通り音楽性を変えながらも、91年から96年までのシングルはすべてミリオンセラー、まさに黄金期と呼ばれる期間を過ごしていた。
作詞稲葉、作曲松本、と制作作業が固定していたことも、1人にプレッシャーがかからず良かったのでは、と感じる。

Mr.Chidrenはそこのところ、ソングライターでありバンドの顔である桜井和寿一人に大きなプレッシャーがのしかかっていたと思う
プロデューサーの小林武史氏との距離感の取り方もよくわからないままに、孤独や厭世観を感じ、それを容赦なく歌詞に反映させていく。

栄冠も成功も地位も名誉も、たいして意味ない「es」(95年)

今は死にゆくことにさえ憧れるのさ「深海」(96年)

自分に嘘をつくのがだんだん上手くなってゆく「Prism」(98年)


結局のところ、セールス的に成功をした後、桜井和寿は過剰なプレッシャーを抱え込んでしまい、無表情に音楽を奏でており、とても苦しんでいた状況であった。

B'zとMr.Chidrenはお互いをどう思っているのか、あるいは交流することはあるのか、この頃は特に興味を持っていた。
だが、今思い直すと、前述した背景により、Mr.Chidrenに自分たちのことで余裕がなさすぎて手一杯、B'zと接点がなかったのも必然であったと思える。



③2000年代以降~常に安定していたB'z、紆余曲折もようやく落ち着いたMr.Chidren

CD売上全体が減少した2000年代以降は、2組ともそれぞれベテランの域に達したことで落ち着くところに落ち着いていた。
ただ、明らかに音楽性が異なる方向へ向かっており、ここでもすれ違いは続くのである。

B'zはコア層に支えられ、90年代後半にロックテイストの音楽性も確立したこともあって、常に安定していた印象がある。
特記すべきは、サポートメンバーにシェーンガラス(ドラム)など外国人ミュージシャンを加えたり、2002年にはエアロスミスと共演するなど、どちらかといえば外国人アーティストとの交流が活発であった
2007年にはハリウッドロックウォークにアジア人として初めて殿堂入りしたり、松本孝弘個人としては2011年にソロ活動でラリーカルトンと共作したアルバムでグラミー賞を受賞、稲葉はソロ活動においてスティーヴィーサラス(ギタリスト)INABA/SALASというユニットで活動、明らかにJ-POPと呼ばれるジャンルから距離を置き、世界水準の活動をしていく。
実際にB'zとしても、全英語歌詞のアルバムを発売し、アメリカやカナダでツアーをまわったこともあった。

一方、90年代にメガヒットを連発しながらも疲れ切っていたMr.Chidrenであったが、2000年代初頭に迷走した後、ようやくポップバンドとして落ち着きはじる。
転機は小林武史氏とともにBank Bandの活動をはじめ、ap bank fesを開催したことである
自分以外の曲をカバーしたり、自分以外のミュージシャンとの共演がよほど嬉しかったのだろう。
コンサートで笑顔を頻繁に見せるようになり、気取った歌い方から優しい歌い方へ、声質が明らかに変わっている。
(稲葉×桜井対談によると、脳梗塞後に喉の手術をした、とあるのでその影響も大きいかもしれない)

さらにap bank fesがもはやMr.Chidrenのライフワークのひとつになっていたことで、プロデューサー小林武史との関係が非常に良好なものになり、2007年から2013年までサポートメンバーとして帯同するほどの、蜜月っぷりであった
よってこの頃のMr.Chidrenの音楽は、小林武史氏によるアレンジが非常に強めであり、ポップで爽やかなものが多く、まさにJ-POPのど真ん中を突っ走っていた印象がある。
2015年に小林武史氏によるプロデュースは終了しセルフプロデュースに移行するわけだが、近年もBank Bnadとしての活動は続いており、良好な関係は維持されているようである。

このように、2000年以降の20年間は、B'zは外国アーティストとの交流を深めMr.Chidrenは日本人アーティストの交流を深め、といった状況で、ビッグアーティストであり続けたものの、活動の状況がまるで正反対の状態で、すれ違い続けるのも必然であった。



④コロナ禍で急接近した2組~変化を余儀なくされたB'z、ひたすら迷ってしまったMr.Chidren

2組が急接近したのは、コロナ禍におけるB'z側の都合が大きいように感じる。
2019年にB'zはサポートメンバーを一新するが、それでも海外の若手ミュージシャンを起用するスタンスは続いていた。
ここにきて、新型コロナウィルスの直撃により、海外のサポートメンバーを率いての活動が難しくなってしまった
よって昨年B'zは5週連続配信ライブを開催したが、サポートメンバーを日本人で固めていた。
B'zとしては、思わぬ形で変化を余儀なくされたのである
海外アーティストとの交流を軸としていた活動から、J-POPの界隈に近寄ってきてくれた、と言い方を変えることもできるだろう

一方のMr.Chidrenは、コロナ禍においては「SOUNDTRACKS」というアルバムの制作を終えてから、2020年末の音楽番組への出演に至るまで、ひたすら沈黙をしていた。(桜井談「迷っていた」とのことである)
このタイミングで稲葉浩志から桜井和寿へオファーがあり、5月14日にアップされた歴史的な対談へとつながるわけである。

この対談の実現の背景には、稲葉桜井対談で、2015年頃のミュージックステーションで会話があったことがきっかけであることが明かされている。
その時点では濃密な交流までは至らなかったものの、対談したことで急激にお互いのコミュニケーションをとりやすくなったと推察する
そして前述の通り、コロナ禍のライブ開催に消極的な2組が、このタイミングで一緒の舞台にあがり共演する、ということになったのだった。

2組はビッグバンドすぎるがゆえに、ライブエンタメ業界の逆風が強い中、「日本の音楽業界の優等生でなければいけない」という立場も共通していた。
要は、ライブをすることで嫌われる立場になってはいけなかったのである。
(今年の夏は強硬開催されたフェス参加アーティストへの批判の声があがるなど、非常に厳しいものがあった)
だからこそルールが厳格に定められ、マスク着用大声禁止はもちろんのこと、日本で初めてワクチンパスポート(任意)が活用され、半分のキャパで大阪城ホールという2組の人気度合いからすれば考えられないほど小さい会場が選ばれ、行けない人のために配信も用意された。

このように、コロナ禍の両者の変化や戸惑いが、とても離れたところで活動をしていた2組を引き合わせたように思うのだ
コロナは絶対にない世界の方が良かったという思いは変わらないが、こうした思わぬ素晴らしい副産物があるのを目の当たりにすると、本当に悪いことだらけの世の中にも良いことはあるんだな、と実感する。




ライブの共演では、

桜井「こんなに馴染むと思ってませんでした」

稲葉「やってみるもんですね」

と語る場面があり、我々が「音楽的に違う2組」との認識は、当人同士にもあったようである。

ライブを見終えた後、「これを超える対バンはない」と確信してしまう自分がいた。
90年代から今に至るまで音楽シーンを熱くし続けた2バンド、それでも音楽性が真逆だと思われてた2バンド、思ってもいないきっかけで共演が急に実現し、思いが追い付かなかった。


夢じゃないアレもコレも


本当だ、稲葉浩志と桜井和寿が向かい合って歌う姿を見られるとは、なんという夢のような話だろうか。
これが「血管の中が沸騰するような異様な事態」なのだろうか。
B'zとMr.Chidrenという、とてもファン思いで優しい「心ある人」の支えの中でなんとか生きてる今の僕で

本当に、本当に、頑張ろうと思えた。
最高の対バンでした。
ありがとうございました。