八上山山頂に登って確かめたかったのは、石碑に刻まれたこの文面です。
写真中央にある「枯骨生光(ここつひかりをしょうじ)」という部分です。

当時天下最強の織田軍内でも、とりわけ戦上手で鳴らした明智光秀でしたが…中国地方に地盤を固める毛利家を攻略する足掛かり、山陰制圧の一歩目からつまずいてしまいます。
波多野一族は勝てる見込みが薄いと知りながらも抵抗し、1年に及ぶ籠城戦を耐え抜きましたが食糧が尽き、当主の波多野秀治・秀尚兄弟は降伏の意を伝え、信長の待つ安土城まで交渉のために護送される途中、信長の罠にかかって暗殺されます。
その際、降伏交渉の条件として攻め手の明智光秀は自身の母親を人質として八上城に預けていましたが、主君が騙し討ちにあったことを知った八上城の城兵は光秀の母を処刑し、全兵討ち死にして波多野家は滅亡した、と伝えられています。
信長の強引なやりくちで母親を失ったことが、その3年後に本能寺の変を起こした直接の原因であるとも言われています。

ところで波多野家の敗残兵たちは、どのような最期を遂げたのか。地元・篠山の子孫たちに伝わるところによれば、まともな供養をしてもらうことも、火葬されることもなく、ただ谷底へ遺体を投げ落とされるだけだったとのこと。地元の人たちはその場所も知っていて、その場所に田畑を作ることもなく、ただ薄く土をかぶせた程度のままだと。

そのことを知った毛利家の当主が、後世まで波多野一族の勇気と功績を伝えるために江戸時代に建てたのが、この石碑だそうです。
「遺骨がここに眠る」ではなく「枯れた骨から光が生じる」という表現はエゼキエル37章にある、谷あいいっぱいにある骨に神からの息吹がかかると、骨がくっついて肉や筋が付き、やがて生き返って立ち上がり、精強な軍勢となった描写(エゼキエル37:1〜10)が思い起こされます。
ヤーウェを神と呼ぶ地にたて籠った波多野家と、彼らを惜しみ、称える毛利家。いずれも渡来人・秦氏の末裔であることがわかっています。実際毛利家は長州藩となって江戸時代を生き延びながら南朝側の天皇の血統を匿い、戊辰戦争で官軍という立場を握る原動力となったとまで言われています。
また四国土佐の長宗我部や九州薩摩の島津も秦氏とされています。幕末の薩長同盟を土佐が取り持ったのはあまりにも有名でしょう。
明智光秀は長宗我部家と親密であり、織田家と共存できる方法を模索していたとも言われています。彼らの血統を守ろうとする光秀もまた、すべてを知っていたのかもしれません。
明智光秀が謀叛を起こしても織田信長の流れはとどめられず、羽柴秀吉・徳田家康がバトンを受け取り、江戸時代に至ります。
その江戸時代を終わらせるのは、かれら秦氏の末裔たちだったということになります。

毛利から贈られた石碑はこのように立派なものです。
波多野一族は初代清秀、二代稙通までは有能で、丹波国一帯に勢力を伸ばしましたが、その後、秀忠-晴通の時代は三好長慶や松永久秀に城を奪われていたようです。五代秀治は信長の上洛で織田家に従いましたが、1976年1月、同じ丹波国内、篠山より少し北西にある黒井城(丹波市春日町)の赤井直正を攻囲するため、織田軍明智勢と共に進軍する途中、赤井側に寝返って明智勢を挟撃します。
丹波の東端・亀岡に逃げ帰った明智光秀が再び丹波制圧にとりかかり、八上城と黒井城を攻め落とすまで、さらに3年かかりました。
そろそろ下山しましょう。裏ルートは距離は長いようですが、比較的なだらかな道が多いようです。
やはりこちら側にも曲輪跡があります。
このあたりは水源も確保されていたようです。
ここが話題のスポット、光秀の母・お牧を処刑したとされる場所です。ところが近年の考証では光秀が自分の母親を人質したエピソードは、後世の創作では?とも言われています。戦況は明智勢が圧倒的に優勢であり、わざわざ肉親を人質に差し出す必要性などなかったというものです。
確かに、磔刑にしたという松の木も見当たりません。ここは曲輪跡のように広いスペースもなく、左右両側が谷になった「馬の背」の途中です。
だとすれば、なぜこの場所を意味のある場所として残しているのか?
ひょっとしたらここから谷底に、波多野家の敗残兵たちの遺体が投げ落とされたのかもしれません。

3に続きます