私は今回5月6日~11日台南三越にて特別販売をしています


これにはとても深い理由があるのです
5月8日はとても大切な金沢出身の方のご命日にあたります
初めての台湾で私は今回とても色々な事を学ばせて頂きました
そして多くの方にhiroの商品を御買い上げ頂き本当に感謝です
これも八田さんのつながりがあったからですね

ここで私が涙した八田さんのお話をご紹介します☆


~~~転載ここから~~~

日本人は知らない!台湾の教科書に載っている日本人

200億円!!
東日本大震災の被災者を案じ、台湾の人たちが送ってくれた義捐金の額だ。
9割は一般人からの寄付だった。

台湾では、地震発生直後から、テレビで緊急特番を放送。
多くの有名人や政治家、総統までもが日本の危機的状況を訴え、支援を呼びかけ続けてくれた。

なぜ台湾の人たちは、そんな大金を日本のために送ってくれたのか?
それは、日本をとても愛してくれているから…。

その裏には、台湾人なら誰もが知っている物語があった。


……1895年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を治めることになった。

日本は、国内の食糧不足を補うため、台湾の農業強化を打ち出した。
しかし、台湾一大きな嘉南平野は、作物がほとんど取れない。

原因は水事情の悪さ。
乾季は日照りで飲み水さえないが、雨季には洪水が絶えず起きるという有様。

そこに、日本から土木技師として派遣された男がいた。
八田與一。
彼はダムを建設するため、水源や地形の調査にやって来たのだ。

台湾総督府に上申する八田。
「ダムに最適な場所は、ここ、烏山頭(うさんとう)地区です。大規模なダムが造れます」

が、台湾総督府は難色を示す。
「こんな大きなダムは不可能だ!もう少し規模を小さくしなければ」

食い下がる八田。
「それでは水量が少なく、平野全体に水が行き渡りません」

「しかし予算がない…」
「一時しのぎではダメです。農民たち全体が豊かにならなければ、造る意味がありません!」

工事費用は莫大で、台湾総督府総予算の3分の1にもなる。
金額的にも規模的にもあまりにも大きすぎて、誰も本当に実現するとは思わなかった。

しかし、小さいダムでは水が行き渡らず、住民の格差が生まれてしまう。
彼は自分の思いを曲げず、計画書を何度も練り直した。

3年後の1920年、粘り強い交渉の末、八田は、費用の半分を農民たちも担うことを条件に、ダムの建設許可を勝ち取った。

ところが、地元住民は大反対。
「なぜ我々がお金を負担しなくてはいけないんですか!」

八田はダムの必要性を必死で説いた。

「ダムができれば必ず豊かになる。皆さんの子供や孫たちの世代が、安心して暮らせるんです」

「僕たちは騙されないぞ!」

住民の無理解など、問題を抱えつつ、何年続くか分からないダム建設がスタートした。

日本人・台湾人合わせて約2000人が、険しい山奥での力仕事に従事。
しかし、衛生状態も悪く、労働環境はまさに最悪だった。

そこで八田は、環境改善のため、上司に要請。
「家族と住める宿舎を作って下さい」

「何を言ってるんだ。我々が必要なのは労働力。女、子供は必要ない」
「しかし、家族と離れ離れでいい仕事などできるわけありません!」

八田の要請が受け入れられ、工夫(こうふ)が家族と一緒に住めるよう、工事現場の近くに小さな町が作られた。
そこには、学校や病院などの公共施設や、映画館やテニスコートなどの娯楽場もあった。
集会所に集まってゲームをしたり、定期的にお祭りを開いたり、工夫たちはここでの生活を心から楽しむことができた。

台湾の工夫たちとも家族のように接する八田。

上からではなく、同じ目線で仕事をする彼の姿勢に心を打たれ、台湾の人たちも次第に心を開いていった。
地元の反対も弱まり、全てが上手く行くように思われた。

そんな時……
1923年、関東大震災が発生。
日本は、台湾のダム建設どころではなくなった。

八田は、台湾総督府からダムの建設予算の大幅カットを言い渡される。
「台湾人半分のクビを切って、何とか工事を続けてもらえんか?」

この噂は台湾人工夫たちの間にも広まった。
「俺たち、そろそろクビらしいぞ」
「そうらしいな…。日本人が優遇されるのは仕方がない…」

ところが、何と八田が解雇したのは日本人ばかりだった。

台湾人工夫たちは驚き、なぜ自分たちを優遇して残したのか、その理由を尋ねた。
すると八田はこう答えた。

「当然ですよ。将来このダムを使うのは君たちなんですから」

日本人は日本でも仕事ができる。
台湾人はこの地でずっと生きていく。
自分たちのダムは自分たちで造ってほしい。

それは八田の思いだった。

工夫たちは、八田を心から信頼するようになった。

そんなある日……

ダムの現場で爆発事故が発生。
死亡者50人以上、負傷者100人以上の大事故だった。

八田は、取るものも取り敢えず急いで遺族の家に駆けつけた。
土下座し、遺族に詫びる八田。

「申し訳ございません!あなたのご主人を殺したのは私です!」

大切な人の命を奪ってしまった。
いくら謝っても謝りきれない……。

未亡人はしかし、八田にこう話しかけた。

「八田さん、頭を上げて下さい。主人は、ダムの仕事を誇りに思っていました。八田さん、どうか立派なダムを造って下さい!」

亡くなった工夫たちは、自分と同じ思いを抱いていてくれた。
家族にも語ってくれていた。

八田は決意を述べた。

「必ず、必ずダムを完成させてみせます!」

多くの仲間を失いつつも、残された人々は懸命に工事を続けた。

そして1930年、10年の歳月を経て、ついに東洋一の大きさ(当時)を誇る烏山頭ダムが完成。

不毛の地と言われた嘉南平野は、米・サトウキビなどが豊富に獲れる、台湾一の穀倉地帯へと生まれ変わった。

台湾の人たちは、ダムを見渡す丘に 八田の銅像を建てた。
それは、考え事をする時の姿。

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八田の物語は、台湾の教科書に載っていて、今でも彼の命日には、毎年ここで慰霊祭が行われている。

今回、日本に送られた200億円の義捐金。
それは、70年の時を経て、八田への思いが恩返しの形で届けられたのかもしれない……。

                       ~~~転載ここまで~~~


ライ市長もいらっしゃり開会式が行われました


金沢からはとても素敵なゲストがお二人来て下さいました


私も可愛い台湾の通訳の方と販売をさせて頂きました