まず私は、ヒトラーのファンでもなければナチズム(国民社会主義)やネオナチに傾倒する者でもありません。人種差別やナチスの犯罪は、繰り返されてはなりません。他者を排除したい考えは多かれ少なかれ、つい持ってしまうのが人間です。しかし、それはエスカレートする可能性があることを肝に銘じておくべきでしょう。関わりたくない、苦手だ、そんな小さな芽から、いじめや差別、対立や紛争、そして条件が揃えば組織的な大量虐殺にも発展する危険を孕んでいます。

ホロコーストを知る現代人なら、電波ソングや黒歴史程度では済まされない歌詞ですが、ラジオと新聞しかない戦前の日本人には、まだ詳細を知りえなかったことでしょう。この時、欧州で激しくユダヤ人が迫害されていましたが、絶滅収容所での大量虐殺はまだでした。ユダヤ人の悲劇が伝わるアンネ・フランクと、V・フランクルが著した本は、日本語訳版が出版されたのが「アンネの日記(1952・昭和27)」「夜と霧(1956・昭和31)」です。
 

 

この歌が「日本やNHK、北原白秋はナチスを讃美していた」と短絡的に捉えると、反日プロパガンダの材料とも成りえます。
1938年(昭和13年)当時の社会情勢をよく鑑みて、戦争や人種差別・優性思想・ホロコーストなどを考える契機となることを願います。

■国民歌謡
ラジオ放送が始まった黎明期に、番組とセットで使う学習書(テキスト)を販売する出版社として誕生した日本放送出版協会(現NHK出版)から、この楽譜は出版されました。今の「みんなのうた」にあたるラジオ番組「國民歌謡」の放送開始以降、以下のような変遷を経て現在に至ります。
1936・昭和11「國民歌謡」
1941・昭和16「われらのうた」
1942・昭和17「國民合唱」
1946・昭和21「ラジオ歌謡」
1963・昭和38「みんなのうた」


この楽譜は1938(昭和13)年8月30日に出版された「國民歌謡 第三十三輯」です。

 


楽譜と、レコードの音声を比較すると違う部分があります。歌詞は4番まであります。
ピアノソロアレンジしてみました。

 

0:11~ ①レコード寄り編曲
3:07~ ②楽譜通り

 

①のレコードでは、3番が省かれています。レコードは後奏も省かれていましたが、ここでは付け加えました。
②の楽譜通りでは、歌パートを省いた1番のみです。
「國民歌謡」は1週間に1曲のペースで毎日、昼12時台(後に19時台に変更)に放送されました。全205曲の内、ラジオ・テキストは149曲の楽譜が発売されています。
レコード音声は、国立国会図書館デジタルコレクションで歴史的音源として公開されています。


■時代背景概要
日本は世界からの孤立を逃れようしたものの、ドイツとイタリアしか仲良くしてくれませんでした。ナチスは反ユダヤ思想を同盟国の日本に勧め、新聞は反ユダヤの論調でしたが国民は同調しなかったようです。一方で、ドイツで迫害されるユダヤ人を満州に移住させる計画を進めていましたが、ドイツと友好が深まったことで頓挫しました(河豚計画・1934・昭和9)。
つまり、ナチスと仲良くしながら日本の新聞は反ユダヤに傾き、一方でユダヤ人難民を助け、ナチスのアーリア人種・ゲルマン民族が優勢とする人種観にはあえて目をつぶった…ようです。

  ヒトラーの著書『我が闘争』(日本語版1932・昭和7)には『日本人は想像力の欠如した劣等民族であるが、ドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在である』など、日本人を蔑視した記述がいくつかありました。しかし日本語版が出版された時、これらの箇所は削除されたそうです。


■ヒットラー・ユーゲント来日
 

ヒットラー・ユーゲント(ヒトラー青少年団・HJ)とは、ヒトラーが政権獲得後(1933・昭和8)、他の青少年組織を吸収し、ヒトラー・ユーゲント法(1936・昭和11)で強制加入させられた10~18歳の男子です。女子は10~13歳「少女団」、14~18歳「女子青少年団」、19~21歳「労働奉仕団」に強制所属されました。

日独伊防共協定締結(1937・昭和12)を受けた日独青少年相互親善交歓事業の一環として、1938年8月16日に彼ら30名が来日しました。一行は3ヶ月間滞在し、日本各地を巡り歓迎されました。

日程は以下の通りです。
8月:東京(靖国神社参拝)・軽井沢(近衛邸でレセプション)・会津若松(白虎隊の墓参り)
9月:函館・札幌・岩手・仙台・青森・秋田・鎌倉(鶴岡八幡宮)訪問
10月:岐阜(日本刀鍛錬見学)・名古屋・伊勢神宮参拝・法隆寺見学・京都・大阪・別府・宮崎・熊本・雲仙訪問
11月:福岡・厳島神社見学・神戸港より帰国
  
 

■満州問題から日独伊三国同盟まで
当時日本は、満州事変(1931・昭和6)や満州国の問題が国際問題となり、国際連盟を脱退(1933・昭和8)した日本はその後、国際社会のルールを破って飛び出した国として外交的に孤立しました。この状況を打開すべく日本は、他国との連携・協力関係を構築しようと画策します。その時、外務省より対ソ封じ込め(反共産主義)を目的とした『防共協定』であれば、諸外国からの賛同が得られ、結果日本は孤立状態から脱却できる、という提案が出されます。これを受け、日本は世界各国にこの防共協定加盟を打診しました。当初日本は、イギリスやポーランドとの防共協定締結を目指していましたが、両国からは断られてしまいました。そんな中、ドイツとの交渉だけは順調に進み、日本とドイツは『日独防共協定』を締結しました(1936・昭和11)。そして翌年(1937・昭和12)には、イタリアが加わり『日独伊三国防共協定』となります。翌年(1938・昭和13)にヒトラー・ユーゲントが来日し、彼らを歓迎するため、大日本連合青年団の依頼で北原白秋が作詞したのがこの歌「万歳・ヒットラー・ユーゲント」です。その2年後(1940・昭和15)、ついに『日独伊三国同盟』が締結されました。

■日本の新聞に見る反ユダヤ人観
新聞は親ナチ・反ユダヤに傾倒していきましたが、国民はそれに同調しなかったようです。日本のジャーナリズムは、1933年(昭和8)の段階ではナチスに厳しい批判を向けていましたが、朝日新聞の記者がヒトラーと会見したのを機に大きく転換します(1935・昭和10)。新聞に登場する学者や文化人も含め、ドイツやヒトラーを賛美します。新聞社による反ユダヤ関係の講演会や展覧会もたびたび開催されました。
河豚計画(1934・昭和9)にも関わった樋口季一郎は、第1回極東ユダヤ人大会(1937・昭和12)に招かれ、ナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行いますが、日本の新聞では大会の存在すら報道されていません。
日独伊三国同盟(1940・昭和15)が賛美され、ヒトラーの演説もたびたび紹介されますが、紙面でその批判はまず行われませんでした。
日中戦争(1937~1945・昭和12~20)はユダヤ人と共産主義から極東を救う聖戦と位置づけられ、ユダヤ人問題は対岸の火事ではないとし、中国の背後には英米(=ユダヤ)がおり、そのことを見抜かなければ日中の関係は理解できない、という新秩序をつくるために新聞は、断固『ユダヤ=英米を打倒すべし』という論調で占められるようになりました。

 

■日本でのユダヤ人難民受け入れ
こうした、新聞の親ナチ・反ユダヤ的傾斜に同調しなかった人々も存在しました。清沢洌は『暗黒日記』の中で新聞を痛烈に批判し、そのユダヤ論に反論しています。
日本政府は、ドイツからのユダヤ人避難民への対応に関して国際連盟から問い合わせを受け、ロシア革命での白系ロシア人避難民と同様に条件つきで入国を認めるとしました(1933・昭和8)。その後、政府は「猶太人對策要綱」でユダヤ人を他国人と同様に公正に取り扱うと明示しました(1938・昭和13)。


また、ユダヤ人避難民2万人が満州国から入国を拒否された際、樋口季一郎陸軍少将は当時の関東軍参謀長東条英機に対し、人道問題として受けいれるべきだと主張し、入国を認めさせています(1938・昭和13)。後日、ナチス政府から抗議が来ましたが、樋口小将は人道主義のもときっぱりと撥ね付け、東条中将もそれに同意し、ドイツの抗議は収束しました。
ドイツで公然と行われたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパ諸国の政府もアメリカ政府も沈黙していました。ドイツ軍がポーランドに侵攻(1939・昭和14)するにつれて、数百万人のハザール系ユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になりました。 しかし、アメリカ・中南米・パレスチナなどが彼らを入国拒否する中、入国ビザなしで上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけでした。 日本政府はユダヤ人難民を保護しました。日本政府の有田八郎外相はハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後もユダヤ人を差別しない。 他の外国人と同じに自由だ」と明言しました。
また、リトアニア在カウナス領事館の副領事だった杉原千畝は、ビザの発給用件を満たしていないユダヤ系を含む者にビザを発給しました(記録上2000件以上で、内ユダヤ系1500件)(1940・昭和15)。


■ユダヤ人迫害の4段階
ヒトラー、ナチスといえば最終的に行き着いたホロコーストを思い浮かべますが、ヒトラー・ユーゲント来日の1938年(昭和13年)は、ナチスの実力行使が始まり、ユダヤ人の家や店を破壊・略奪・放火したり、財産や命を脅かされ始めた時です。
ナチスによるユダヤ人の迫害は、政権をとった1933年1月以降ホロコーストに至るまで、次の4段階の過程を経てエスカレートしていきました。

 

◆第1段階《1933~1935年》…ユダヤ人をボイコットするための規則を法制化。ナチスの実力部隊によるユダヤ人の経営する店舗の営業妨害がはじまり、ユダヤ人が競技場やレストランなどへ立ち入ることを禁止します。
 

◆第2段階《1935~1938年》…ユダヤ人から人権を奪い非合法化。1935年にナチスによって2つの法律からなるニュルンベルク法が制定され、そのうちの「帝国市民法」によりユダヤ人の公民権が無効にされました。また「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」では、ドイツ人がユダヤ人と結婚することを禁じています。この頃からナチスの実力行使が始まり、ユダヤ人は財産や、命を脅かされます。公立学校からユダヤ人の子供は追放されました。


◆第3段階《1938~1941年》…ドイツから隔離し収容。1938年には、「クリスタルナハト(水晶の夜)」といわれる事件で反ユダヤ人感情が昂ぶり、ドイツ各地のユダヤ人の住宅や商店、教会が襲われ、放火されます。ユダヤ人が強制的に収容所に送られる地域もありました。
 

◆第4段階《1941~1945年》…収容者の虐殺。1941年、独ソ戦(ドイツ=ソビエト連邦戦争)の開始と時を同じくして第4段階が始まります。「移動虐殺部隊(アインザッツグルッペン)」がつくられ、ドイツ軍が進出したところ、特にポーランド、リトアニア、ウクライナなどでユダヤ人やロマ人や共産主義者(ソビエト連邦兵士)などを虐殺していきます。そして1942年1月、「最終的解決」として物理的な絶滅が決定され、「絶滅収容所」が建設されることになりました。ナチス勢力下の各地から列車により輸送されたユダヤ人の7~8割は、収容所に到着するとすぐに毒ガス室に送られ、殺されたといいます。それを逃れたとしても、劣悪な生活環境の下で強制労働が課せられ、多くの人が飢餓と病気で亡くなりました。このようにして1945年までに約600万人が犠牲になったといわれています。


■ユダヤ人迫害年表(途中まで)
【第1段階】
◆1933年
・ユダヤ人企業の商品不買運動をするボイコット委員会設立。
・ダッハウに最初の強制収容所建設。
・ドイツ全土で「非ドイツ的文献」の焚書行動が起こる。
・断種法制定。

【第2段階】
◆1935年
・「ドイツ人の血と名誉の保護法(ニュルンベルク法)」が制定される。
・ユダヤ人に記章、勲章、称号などの使用を規制。
◆1936年
・ユダヤ人の解雇が不当かについて、帝国最高裁は人種の特質が解雇の理由として適用できる、との判決を下す。
◆1937年
・法務省、ユダヤ人が右手を斜め上に挙げるドイツ式敬礼をし身分を隠す手段にすることを禁じる。
・ルーマニアで約12万人のユダヤ人が国籍を失う。
・「警察による犯罪防止法の基本法」制定(乞食、放浪者、娼婦、飲酒癖のある者、伝染病、特に性病にかかっているにも関わらず衛生局の措置を受けていない者らを反社会的人間とみなし、漂泊生活のジプシーは予防拘禁され、収容所へ)。

【第3段階】
◆1938年
・ヒットラー・ユーゲント来日。
・ユダヤ人の福祉団体は、非課税の権利を奪われる→法令でユダヤ人たちは公的な福祉事業から除外。
・内務省、ユダヤ人に国内外の自己資産の登録を命じ、「贖罪としての租税」とし、税額は登録財産の20%に設定。
・警備業、興信所、不動産代理店などユダヤ人の営業活動に関する規定を発令、活動停止。
・小売業は年内にいっさいの商業活動停止。
・内務省、ユダヤ人商店にマーク掲示を義務付け。
・法令により、ドイツ企業はユダヤ人経営者をすべて強制解雇するよう指導。
・ドイツ国籍のすべてのユダヤ人に身分証明書の申し込みを命じ、15歳以上は証明書の携帯を義務化。
・イタリアがユダヤ人・非アーリア人種との結婚を禁止。
・「クリスタルナハト(水晶の夜)」事件(ドイツ各地で反ユダヤ暴動)。
・ユダヤ人がナチス祝祭日などに街路に現れるのを禁じる権限を地方当局に与える警察命令。
・ユダヤ人への土地売却禁止令。
・ユダヤ人企業、不動産、有価証券について所有者が一定期間内に売却するよう規定する法案成立。
・ユダヤ人の運転免許剥奪。
・ユダヤ人児童に対する所得税の扶養控除の廃止が決定。
◆1939年
・ヒトラー、不治の病人を安楽死させる権限を医師に与え(T4作戦)、7万人の患者殺害を決定。
・地方警察、ユダヤ人に午後8時以降の外出禁止を命じる。
・ユダヤ人は強制労働部隊での労働の義務があると規定。
・旧ポーランドの州および地域のすべてのユダヤ人の強制移住を命令。
・精神異常者1万人以上をガス車を使用して殺害。

…第4段階(1941~1945年)まで書こうと思っていましたが、鬱展開すぎて、このへんまでにしておきます。

 


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