バス停感覚の浮気心
バスに乗っている奴はバスを目的地への移動手段と考えている。
バスを待っている奴は目的地への手段のスタートと考えている。
手段の始まりであり、運ぶという実態であるバスの存在は、
目的地へつながるという広意だけど、
じゃ、存在そのものは何?って考えたら、わからなくなる。
きみは花ちゃん。
これは絵筆。
そういった単語と同じなんだけどな。
単体が、その意味や用途を発揮するとき、単体が単体の意志だったり、或いは使用者の意志で働かせるとき、
単体の名の域を易安と越え、
物は行動の意味に変わる。
わけわかんない。こんな話をしたらそう言われるかな。
バスは乗り物で、動いたら手段になる。単純なこと。
ただそこに不思議を感じる。
物に命が宿るとかいうけど、
なんかそんな感覚。
言葉もきっと同じだな。
単体の音と、意味とつながって、
意思疎通の手段になる。
それをもっともっともっと
かみしめて
ふくざつにして
ひっくりかえしたり
まっすぐのびたり
ふれあったり
うそをついたり
それをみないふりしたり
喜怒哀楽
そういうのが
人間なのかな。
生きるってことなのかなあ。
バスに乗っている奴。
バスを待っている奴。
受動的でありながら、すでに行動しているとみなされる。
来るのを待っている奴、降りるタイミングを待っている奴、
だめだ、降参。
違和感の追及に答えは出ない。
けど、ひとつ。
なんにもしなくても、世界を変えているし、
なんかしていても、世界を変えているのは、どうやらまちがいなさそう。
めまぐるしすぎて感謝すらかみしめられないなんて、
言っているうちにシワシワに老いるんだろうね。
はやくねむりたい。
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