ふきんしんといわれようが
どちらかというと、結婚式のおめでたい席よりも、
お葬式の焦燥感に慣れている。
御祝儀よりも御布施をよく見るし、
本日はおめでとうございますよりもこの度はご愁傷様です、のほうがよく耳にする。
亡くなったひとの死を偲ぶ。
ただ、それだけだ。
一体、何人、見送れたかな。
しおらかな喪服と対象に、遺族というのは騒々しい。
あれが要る、これが要る、通夜と式どちらに行く、誰と何時に、どこぞの誰を呼ぶ呼ばぬ。
花は、表書きは。
車は。
騒々しいのだ。
当人は
謳うように流れるお経も、
山ほどの菓子折りも、
気遣いか純朴か計り知れぬ群衆の涙も、
なにひとつ持って往きはしない。
姿形さえ、消して、いつか、
個人の記憶から、歴史の微睡にさえ姿を隠す。
何ひとつ、持っていかないのに、
万物を遺す。
さみしくないように、かなしみをひとりきりで背負わないように、
ご縁が何時の間にか疎遠なんていうつながりになってしまった親族をむすぶ。
ひとの死に慣れてしまったか。
めでたい席への縁がなさすぎるゆえか。
お葬式の焦燥感は嫌いではない。
長い長い葦を思い出す。
いつかどこかの偉人が遺した、
我々は考える葦である
という言葉を。
死生観はひとそれぞれ。
万事が個々のエゴから織り成す奇跡の
流れであるとするならば、
私の最期はなにひとつ遺さず
海に還りたいと願う。
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