先にサブタイトルとして

『自分の欲望で身を焼かないで』


本文


ただ何々が欲しい。〜の様に。

いつからか人々の祈り方が変わってしまっている。


祈るとは、本来『意が乗る』これが祈るへと変化したものだ。


意とは、宣言だ。


〜になります様にとお願いしたならば、先ずは自分の考えられる範囲で私はこう動いて行きます。なので、ご助力お願いします。と伝えてみて下さい。


祈りは神々との二人三脚なので、意とは神の意志が乗るこも表されている。


実際、神様が何をして下さるかというと、ご縁繋ぎである。


人を会してなのか、閃きなのか、情報なのか、金銭なのか、まちまちである。


不本意ながら、自分の意図した通りのことをもたらしてくれないかもしれない。

それは、神の意思でこの現実で体験で学ぶべきことがあるよ、氣付いてねというサインである。

それに氣が付くまでは、繰り返し繰り返し同じ場面に遭遇する様になっている。


今の学びが終われば、ご褒美として本当に欲しいもの、必要なものを届けて頂ける。


その意図に気付かず何度も何度も願っていると、まだ応援が足りないのかな?と目に見えぬ助力を増やしてくれる。

その結果、からだが重たくなったり、痛み出したり、病気になったり、家の中の居心地が悪くなったりと不本意ながらのその時点での結果を生むのだ。

強制的な縁切りが来たり、手離しが来る。


なので、自分の欲望で身を焼かないでというサブタイトルを付けさせてもらった。


スピリチュアルと現実想像する自らの行動はどちらも五分と五分。


自己実現する現実的な行動も必要である。



前置きが長くなったが 


本来の参拝(祈り方)


1.初めて行ったところでは、何処どこの誰々ですと伝える。


2.出逢わせて頂けた、ご縁を結べたことへの感謝を伝える。(氏神さまであれば、日々生活出来ていることへの感謝を伝える。)


3.お願い事を通して、自分はこれから何をして行くのかを伝える。


そして、また訪れたときには、その結果への感謝とまた新たな宣言をする。

この繰り返しである。


そして神々の恩恵を受けながら、人々は成長し、繁栄していく。


だからと言って、頑張らなきゃと思い、力まなくても大丈夫。


我々は元々、神々とも繋がっているのだから。


試しに続けて頂ければ幸いです。


皆々様に幸多からんことを🙏