今、この原稿はバンコクから飛行機で北に1時間半程離れたチェンライで書いている。
高層ビルのない大きな空の下、自然溢れるのどかな田舎の風景が広がる。
大自然の中に身をおくと、木々や草や虫や鳥等との距離が近く、自らもまた空や水や大地の大きな恵みの中で生かされ循環していく一部なんだと実感する。
そしていつの間にか肥大していた自分の中の傲慢さに気づかされる。
俯瞰してみれば人一人はとても小さな存在で、大きな流れの中に身を委ねているのが精一杯なのではないか。
人生の舵とりにおいても自らがしてきたと錯覚しているだけで、実は「なるようになる」し「なるようにしかならない」のではないか。
しかしそれは決して「諦め」などというものではなく、自然の摂理の中で常に最善最良をもたらしてくれるのだ。なんていうことを確信に近い形で感じさせてくれたりするから大自然は不思議である。
ちょうど今、私達夫婦はひとつの岐路に立っている。
夫には持病があり長年薬に頼ってきた。
ところが最近薬の効き目が悪くなってきたため、症状を薬で抑えるだけの西洋医学ではなく、別の治療法への移行を試みることにした。
しかしこの治療法は西洋の薬とは違い、湯治のようにゆっくり様子を見ながら進めていくものなので、すぐに結果は出ない。
何にでもすぐにでも白黒つけたい性格の私は、行き先がはっきりしない状況にたまにヤキモキしてしまうのだが、ものは考えようで、いずれは西洋医学から離れる事は夫婦で話していたので、少し思っていたより時期が早まっただけであり、遅かれ早かれこの岐路には立つ事になるのだった。
いつか、が今になった事で、物事の優先順位がより明確になった。あれもこれも、という雑多な思いから流される中で、優先すべき事、継続出来るものと出来ないものがおのずと決まってくる。幾つかの進むべき道の候補も絞られる。ジタバタせず静観し、流れに身をまかせる時期も大切なのかもしれない。
海や山や森という、数千数万年、いや数億年ものとてつもない年月の中に有り、この先も少しずつは形を変えながらもそこに有り続けるだろうものの中に、たまに身を置いてみることを是非とも皆さんにもお勧めしたい。
大小関わらず悩み事や気にしている事、万が一うまくいかなかった事などがある場合はとかく、それに捉われがちになるものだ。ところが大自然の中に身を置くと、視線を高く広く持つ事となる。すると捉われていたものが小さくなっていく、または気にならなくなる、または小さすぎて見えなくなる…(笑)
自然界が実にうまく出来ていて、豊かである事を肌で感じる時、何故だか何もかもが、「大丈夫」なんだと教えてくれている気がする。
人生は誰のものでもなく、また一度きりだ。そして、思っているより短くて深い。