今日(正確には昨日)、午後2時46分、黙祷した。
あれから一年が過ぎたのである。
あの大震災を胸に刻んで忘れない。
こんにちは。
今日は読書感想文です。
ゾウの時間 ネズミの時間 -サイズの生物学 本川達雄著
- ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書)/本川 達雄

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新書なのですが初版が20年前で、もはや古典の部類に入ります(友達が教えてくれましたw)
ただ、この中身を書評しようとするとかなりの知識能力(特に数学を簡単に説明する能力)と要約力が必要みたいです。
なのでどこまで紹介できるかは保証の限りではありません。でも面白かったです。
「サイズの生物学」とある通り、動物(生物)はサイズが違うと行動速度も範囲も異なり寿命も異なります。ところが哺乳類を形作ってる細胞の大きさはほとんど同じなのです。また一生に打つ心臓鼓動総数も同じなのです。
サイズを考えて見える動物(生物)のデザインを理解し、その動物(生物)が成り立ってる論理を人間に理解可能なものにする新しい生物学入門書…だそうです。
生物の時間は、体重の1/4乗に比例するのだそうである。これから他の時間に関するものを組み合わせて計算すると、哺乳類はどの動物でも、一生の間に心臓を20億回打ち、5億回息をスーハーと吸ってるらしい。
進化論の中に「島の法則」というのがあるらしい。
島に閉じ込められた動物は、大きいものは小さく、小さいものは大くなるらしい。(化石でわかるらしい)ゾウもネズミも「普通」の動物になりたくなるみたいだ(安全で閉鎖した空間では)。
次に標準代謝量(=基本的なエネルギー消費量、人間でいうところの基礎代謝量のこと)についてだが、これが不思議なことに体重の0.751乗に比例するというのだ。
つまり、3/4乗に比例すると言っていい。
これが不思議なことに、単細胞生物から変温動物も同じく体重の3/4乗に比例しているのである。
生命の設計原理と呼んでいいものだと書いてた。もっと教科書に載っていいのではないかと。
食事量だが、体重の0.7~0.8乗に比例している。つまり体重が増えるほどには、食べる量は増えないということらしい。
200gのハツカネズミで、4日もあれば自重と同じだけのえさを平らげる。その一方、ウシは体重450kgに与える飼料は1日12.3kg。自重と同じえさを食べきるのに1カ月ちょっとかかる計算になる。
ウシを食べる贅沢という話がある。
一定の量のえさで体組織をより多く増やす「組織生産機械」と動物をみなしていくと、恒温動物ははなはだ効率が悪く、ほとんどが燃焼に使われてしまっているらしい。
マックスクライバーいわく
「ここに10トンの干し草があるとする。これを500kgの牡牛2頭に食べさせても、体重2kgのウサギ500匹に食べさせても結果は同じ。サイズに関係なく、0.2トンの肉が新たにでき、6トンの糞の山もできる。ただし、ウサギは草の山を3カ月で食いつくすが、ウシは14カ月かかる。
同じ草をイナゴに食べさせたとしよう。体重1gのイナゴ100万匹、9か月で草の山がなくなり、200万匹(2トン)の新しく生まれたイナゴと、6トンの糞の山ができることになるであろう」
少ないえさで肉をたくさん作りたいのなら変温動物は恒温動物の10倍の収穫があるのである。ウシを飼うというのは時間的にもエネルギー的にもぜいたくな話だということであった。
こんな具合にいろいろと数学的な検証が行われていくのである。
レビューを書かれてる方には「根拠が薄い」的な評価の方もいらしたが、これに根拠の論文でも載せられたらきりがないと思う。
5章は「走る・飛ぶ・泳ぐ」で、移動距離と酸素消費量と体重から「コスト」を出してサイズと比較してある。
6章は「なぜ車輪動物がいないのか?」
世の中にあるものは生物が発明した物の焼き直しがすべてらしい。そのなかで「車輪(スクリュー・プロペラ)」だけは人間オリジナルだ…らしい。
なぜいないのだろう? その説明はなるほどって感じであった。
厳密に言うとバクテリアの仲間にはスクリューを持っているものがいるらしいのだ。
水中の水素濃度差でまわしてるらしい。
8章「呼吸器系や循環器系はなぜ必要か?」
単細胞生物は浸透と循環で酸素とか栄養を回せるからいらないのだそうな。それが厚みができてくると必要になるらしい。循環器はあるが呼吸は皮膚呼吸なミミズは、呼吸器官がない故あれ以上太くはなれないのだそうである(長くはなれるので3mってのもいるって書いてた)
動物の建築法と植物の建築法の違いも面白かった。
動物は外骨格とか内骨格をとる。昆虫のように「殻」で骨格を形成したのが外骨格である。これには無数の気管が開いており内部へ直接酸素交換するようになっている。その先は各細胞まで細かく分かれてるのだそうな。
問題は脱皮の時だ。その期間まで丁寧に脱がないと内部を自己破壊しかねないのだそうな。
植物の建築法は細胞の周りをセルロースで固めたレンガのようにどんどん積む方式なので、実は大きさの限度があるようでないのではないかと書いてあった。
またこのセルロースをなぜだか分解する機能(酵素)を持った動物が存在しないのだ。ウシやヒツジは、胃の中にバクテリアを潜ませ反芻でまかなってるらしい。
また、昆虫といえば「変態」だが、なぜかというのを成長するのに比較的手に入りやすい葉っぱ類を食べて育つ時期と、繁殖のために葉っぱのように重くエネルギー変換の悪い食事をせずにかつ移動しやすいようになる時期と人生を分けているのだろうと分析する。
このあと「動かない動物」「棘皮(きょくひ)動物ーちょっとだけ動く動物(ひとでよかウニみたいなの)」と続いていく。
かなり面白かったとこだけを書いてみたが、書きそびれたとこだらけであった。
いや、面白かった。(しんどかったけど)
それにしてもここまで読んでくださった、あなた。本当に感謝してます、こんなつたない文章を。
それではまたね。
こんばんはあげいん。
ここでは私の右目の状態と「光市母子殺害事件」の死刑判決についての覚書を残しておきたい。
まず、右の眼状態だが、相変わらずとしか言いようがない。
前にも述べてご存知の方もいらっしゃるかと思うのだが、右目は視力がもともと裸眼で0.1なくて、そのうえ乱視があって老眼になり、でもって白内障になった。
しかもなったのが40代後半とすごく早い、でも光が当たると真っ白にハレーションを起こしてしまう。
なので手術を受けた。
しかし、よかったのもわずかで、時期に左右の視界のズレとか、明るさの違い、目が辛くて開けてられないとかの症状が出てきた。
それでも何とか両目で見ようと努力してきた。
何が辛いって、これではまともに何も「仕事」ができないではないか。
そうやって苦しい生活を送ってきた。
そんな昨年の6月、ある意味突然だったのだが、右目にもやのようなものが出てきた。
見えないのである。
いや、見えるのだが、かすんで白くなる。
手術した方でなないのではないかと疑ったり、何かが目に入ってなったので数日で消えるのではと思ったりしたが、やっぱり手術した方で間違いはなく、時間がたってももやはひどくなるばかり。
眼科に急いで行った。
かなり、いや、泣きつくように叫びながら「目が、目が見えなくなる!助けて!」と
先生は冷静なもので、「視力に問題はないし、かすかにもやはあるけど大丈夫。半年後に再検しましょう。」
そんな…それだけ?
で半年がたち、症状は改善せず。まぁ、悪くはなってもこの年だから良くはなりはしないわな。
で、結局どうなのと、医者に確かめた。
「…後期白内障です」
「どうすればよくなります?」
「レーザーでの処置しかないですね…今はまだ視力も落ちてないので様子を見ましょう…」
まぁ、そんなで右目は薄く白いもやのような膜がかかったような視力である。
どうなっていくのだろう。
就職のこと、車の運転のこと…不安は尽きない。
話は変わって「光市母子殺害事件」]
これで思い浮かべたのが、「<子ども>のための哲学」の一節である。
こうだ。
「戦争中は敵を殺すのが善いこととされるのは、それが自分たちに好いと感じられる状態をつくり出すと信じられているからで、もしほんとうにある人を殺すことでみんなが好いと感じるなら、それは善いことだ、とぼく(中学生の頃の作者)は考えた。これはいわゆる功利主義的な考え方で、また、死刑容認論に通じる考え方だ。…」
道徳は、つまり善悪は幸福をつくり出すか不幸をつくり出すかで決まると、「ぼく」が考えた部分につながる一節である。
だからどうというもりはない。
大月被告の死刑判決に何か意見があってここをのぞかれてる方があれば、謝っておきたい。
死刑判決にどちらかというと心情的に賛成であるが、明確な意見はない。
ただ、上記の一節を思い浮かべたから書いておきたかったという、純粋に知的興味だけである。
正義と功利…難しい問題であると思う。
いつかしっかりと書いてみたいと思うが、私には無理かな。
そんなこんなしてたら、すぽるとの時間に。
Monday Football見なければ!
ではまたね。
1999年、山口県光市で母子が自宅で殺害された事件。広島高裁で被告の元少年に死刑判決が言い渡された。
こんばんは。
今日も絵が描けてなくてすみません(展覧会なのにね)
(あ、本の展覧会かwww)
- <子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス/永井 均

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タイトルから子ども(幼児)に読ませるような簡単な哲学書とか倫理学書だと思って読んだらとんでもない難解だけどていねいに書かれた本格的な(この表現も微妙だけど)一冊でした。
大きく二つの問いについて、永井さんが一人語りのように書き進めてあります。
第一の問い「なぜぼくは存在するのか」
第二の問い「なぜ悪いことをしてはいけないのか」
そもそものこの問題の真の意味の説明がいまでも理解できないままです。
自己意識とか自我でない、だけど世界を形作っている<ぼく>という<奇跡>の意味もぼんやりともつかめないままに読み進めました。
認識論的独我論っては少し、いやぼんやりとかなつかめた気になったのは。
利己主義ってのは何となくわかったのですが・・・
つまり、ほとんど理解できないままにいたということです。
正直言って読むのをやめようかと思ったのですが、その結末が見たかったからと、第一の問いの中で心に引っ掛かっていた一つの確信めいていたものがあったからです。
“「個別化された脱人格的自我」これに似た普通の言葉を探すとしたら何だろうか。”
“正解はもちろん“魂”もしくは“霊魂”だ”(P84から)
この一言に巡り合えただけでも読んでてよかったと思う。
でも、それがすべての答えではありえない。
なぜなら、「他人」の魂と<ぼく>の魂と違っているわけが説明されてないからで、結局独我論に戻ってしまうという堂々巡りなのだ(詳しいことは本を読んでください)
この世の中には「子ども」の哲学、「青年」の「大人」の、そして「老人」の哲学とカテゴライズされるらしい。
「子ども」は「存在」を問い、「青年」は「人生(生きる)」を、「大人」の課題は「社会」であり、「老人」の哲学の究極課題は「死」であるらしい。
なので、今までの日本の哲学は「青年」の哲学を進んできたらしい。
思うに哲学は大きく「宗教」とも重なるような気がする。
ともかく、二つの問題について小さいころから考え歩んできた思考を懇切丁寧に紹介しながら、語りかけるような文体でじっくり深く書いている哲学書です。
子どもに読んで聞かせるには深すぎるが、たまにはじっくりと考えてみたい問題ではありますね。
ぜひ一読を。
ではまたね。

