周庭氏逮捕「法の支配」からあまりに乖離する訳 中国の欺瞞が国家安全法の運用に見え隠れする | みひろのブログ
     

    (倉持 麟太郎)

     

    合わせ鏡のようにわが国の「法の支配」の“本気度”も問われている(写真:ZUMA Press/アフロ)
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    合わせ鏡のようにわが国の「法の支配」の“本気度”も問われている(写真:ZUMA Press/アフロ)
     
     

     8月10日、香港の反政府抗議運動の「女神」とされていた周庭(アグネス・チョウ)氏が、中国共産党に批判的な論調で知られる香港紙・蘋果日報(アップル・デイリー)創始者の黎智英(ジミー・ライ)氏らとともに香港国家安全法(国家安全法)に違反したとして逮捕された。

     

     

     国家安全法は、香港で反政府的な動きを取り締まる法律。さかのぼること約40日前の6月30日に中国の全国人民代表大会常務委員会で可決・成立し、香港政府によって即時施行されていた。国家分裂や外国勢力と結託して国家の安全に脅威をもたらすことなどを犯罪行為と規定し、中国当局が香港の治安維持に直接介入できるようになった。香港に高度な自治を認める「一国二制度」を骨抜きにした格好だ。

     

     筆者は、去る6月9日、国家安全法に抗議する集会で、香港にいる周庭氏や民主派議員とオンラインでつなぎ、香港の現状を聞いていた。その際にも周庭氏は、「この集会での発言も国家安全法違反の証拠になるかもしれない」「いつ逮捕、収監されるかもわからない」との現実的な恐怖感を率直に語っていた。

     【2020年8月17日11時59分追記】初出時、抗議集会の日付が誤っていましたので修正しました。

     

    筋書きどおりであり不可解な周庭氏逮捕

     今回の逮捕は、まさにその危惧が現実のものとなったという意味では残念ながら案に違わない逮捕だ。一方で、6月末の国家安全法施行とともに「デモシスト」を脱退し、積極的な政治活動を控えていた彼女が7月以降のいかなる行為をもって国家安全法違反に問われたのかは定かではない。報道ベースでも、警察も7月以降にSNSを利用して外国勢力と結託し、国家の安全を脅かした罪での逮捕としつつ、国家安全法施行後の7月以降の周庭のいかなる具体的行為が同法の構成要件に該当するかについては説明がなされていないという。その意味では、逮捕の内実は厳密には闇の中だ。

     

     中国政府は、2019年から香港市民によるデモを香港における「法の支配」を踏みにじるものであり「一国二制度」への挑戦であるとしてきた。これを受けて、国家安全法はその目的に「『一国二制度』、『港人治港(香港住民による香港管理)』、高度の自治の方針を揺るぎなくしかも全面的かつ正確に貫」くことを掲げ(1条)、「香港特別行政区は国家の安全を守るとき、人権を尊重、保障」し、国際的な人権規約を前提として香港市民の「言論、報道・出版の自由、結社・集会・行進・示威の自由を含む権利と自由を法によって保護しなければならない」として(4条)、中国政府のいう法の支配を維持・保護するための法体系だという“タテマエ”となっている。

     

     ここで大きな疑問が頭に浮かぶ。中国政府のいう「法の支配」は、日本人が大学の法学部に進んだ際、最初に習う「法の支配(the rule of law)」とはその中身が異なるのではないだろうか。

     

     一般的な憲法学の基本書を開けば、法の支配とは、われわれ1人ひとりの人権や自由の価値を保障するために「人」による恣意的な支配を排し、法によってこれを規律する原則である。そのためには、人が法を読めば自分がどう行動すればよいかわかる基準を提供していなければならない。

     

     具体的には、その「法」が特定の誰かを狙い撃ちにしたり、同じ行為に対して人によって適用が変わったりするようなものではなく一般性を有していることが必要である(一般性)。

     

     また、法文が曖昧漠然として何が禁止されているかがわからなければわれわれは自由の行使を萎縮するため明確性が要求されるし(明確性)、後出しじゃんけんのように法ができる以前の行為を遡って突如罰されては恣意的な運用が可能になってしまう(遡及処罰の禁止)。

     

     最後に、法の内容および適用においてこれらの要素が守られているかを独立した第三者機関である裁判所によってチェック・監視されていることが望まれる(司法権によるコントロール)。

     

    どこまでは自由でどこからが制限されるのか

     要は、法の支配において法を語るうえで重要なのは、どこまでは自由でどこからが制限されるのかが明確にわからなければ、人は自分の人生を自律的に設計すらできないということである。道路交通法でいえば道路ごとに定められた最高速度までスピードが出せるとわかるからこそ、それに反しないように自分で判断・調整してスピードを出し、目的地へ向かう。法による制限が明確にわかってこそ、その中で自由を行使し自分の人生を中長期的に構想できる。

     

     この法の支配を支える重要な価値が、「適正手続=デュープロセス」であり、日本国憲法も31条「適正手続きの保障」として、刑罰を科す法律はそれを受けるわれわれの代表者である国会で制定されている(罪刑法定主義)。加えて、「手続」の適正とその法文の明確性等「内容」の適正を要求しているとされる。

     

     例えば、国会で法定さえされていれば「女性差別法」を制定してよいはずはなく(内容の適正)、また、何が規制されるのかわからないような不明確な法文をもとに恣意的な逮捕等の運用をしてはならない(手続の適正)

     

     さて、国家安全法および今回の周庭氏の逮捕を「法の支配」の貫徹の文脈で強弁する北京政府。しかし、周庭氏らの逮捕は、7月以降のSNSでの発信が実行行為とはされているものの、7月以降に彼女がほとんど政治的発信をしていないことからすれば、事実上の遡及処罰と言いうる逮捕であり(遡及処罰の禁止)、周庭という象徴的な女性や政府に批判的なメディアの創始者を“狙い撃ち”した可能性からすれば、法およびその運用の一般性も欠く(一般性の欠如)。そもそも、どのような行為をすれば国家安全法違反になるのかもわからないとすれば、法の明確性の要求にも応えていない(明確性の欠如)。

     

     周庭氏や黎智英氏の逮捕からすれば国家安全法自体に規定されている香港市民のデモや報道といった人権保障や自由の尊重など名ばかりとしか言いようがないし、国家安全法の適用に関する中国政府からの出先機関である香港特別行政区国家安全維持委員会の行った決定は「司法審査を受けない」と規定し(14条)、法の支配の最後の砦である裁判所による権力の統制がそもそも欠如している(司法権によるコントロールの欠如)。

     

    中国のうたう「法の支配」は明らかに異質

     以上のとおり、国家安全法は、既述の「法の支配」の内実をなす法およびその運用に求められる要素を“すべて”欠くようにしか見えない。同法案によって中国政府が守ろうとする、中国のうたう「法の支配」は、人類が立憲民主主義とともに獲得した法の支配とは明らかに異質のローカルな「“口だけ”法の支配」と言わざるをえない。

     

     安倍政権は、対中安全保障政策の文脈で「法の支配」を繰り返し主張してきた。ならば、今まさに「法の支配」の真の意味を中国に突きつけ、今すぐ不当な逮捕等、およそ近代国家の体をなしていない法の制定と運用による「法の支配」の破壊行為を止めるような働きかけが求められる。そうでなければ、「法の支配」も“言ったもん勝ち”状態の価値のインフレ化が起こるばかりか、異議を唱えないものも、法の支配の価値の蹂躙に対する不作為の共犯者になってしまう。

     

     自由、人権、法の支配といった価値の尊重と擁護は、国際社会という現存の最も大きなコミュニティーに属するものと自称する者であれば、そのコミュニティーの一員として共有しなければならない最低限のルールだ。家庭内での悪質なDV行為の摘発が「家庭内への干渉」にならないのと同様、国際社会の一員が共有しているはずの価値観とルールの冒涜と挑戦を摘発し抗議することは、内政干渉ではないだろう。

     

     国家の「自律」には、人が自分らしく生きられるための普遍的価値や枠組みを踏みにじる「自律」など含まれていない。このルールや価値を共有するかのごとく形式的に標榜しつつ、内実、人権や法の支配を蹂躙し続けるという挑戦的態度をとる中国政府は、今後国際社会というコミュニティーに属し続ける意思があるのかどうかまで問われるだろう。

     

     日本政府や日本社会は国際社会というコミュニティーの住人であり、普遍的価値に真にコミットする者の責任として国際社会に向けて明確に発信することが求められている。これができるかどうかは、合わせ鏡のようにわが国の「法の支配」の“本気度”が問われている。

     

    中国的な価値観や覇権主義にどう向き合うか

     日本の「国益」という保守的文脈でも、人権や法の支配というリベラルな文脈においても、香港のこの問題は広い意味を持つ。誤解を恐れずに言えば、データ・グローバリゼーション、スコアリング/監視社会、ライトな独裁インフラの輸出、人権デューデリジェンスに耐えかねる民族差別(経済安全保障)等々、例示すればきりがないが、安全保障だけでなく世界に広がりつつある個人の自律を飲み込もうとする中国的な価値観や覇権主義にどう向き合うかまでもが問われている。

     

     日本という国家がどこまでいってもわれわれ1人ひとりの集合体でしかないとすれば、われわれ1人ひとりがこの問題にどう向き合うかによって、この国の自由や法の支配の在り方が決定づけられることを忘れてはならない。