官邸肝煎りといわれた検察庁法改正は、ネットの炎上や検察OBの反対表明を受けて、あっという間に衆院採決見送りに追い込まれた。そればかりか渦中の黒川弘務・東京高検検事長は自粛下で賭け麻雀に興じていたことが発覚し、辞任に追い込まれた。この問題を追及してきたジャーナリスト・森功氏が、その内幕に迫った。(文中敬称略)

 

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 首相の安倍晋三があれほど拘っていた今国会の法案成立を諦めたのはなぜか。その最大の理由の一つが、5月15日の「言論テレビ」だと見ていい。ジャーナリストの櫻井よしこがインタビュアーを務めるネット番組に対する想定外の反響である。

 

 首相本人が番組に登場し、櫻井が1月31日に閣議決定した黒川弘務・東京高検検事長の定年延長について、こう尋ねた。

「ぜんぶ法務省から官邸にもってきたものですね。(官邸は)なんら働きかけていないのですね」

 

 そう振られた首相は、待ってましたとばかりに「ハイ」と明言。黒川の定年延長は法務省が決めた案に従っただけだというわけだ。官庁に責任を押し付ける常套手段は、インタビューで用意された想定問答なのだろう。

 

 しかし、今度ばかりは勝手が違った。黒川人事に官邸が関与していないなんて誰も信じない。これが世論の火に油を注ぐことになり、身動きがとれなくなったのである。

「官邸の守護神」と異名をとる黒川の事務次官時代は、モリカケ問題の時期に重なる。加計学園問題で文科大臣の下村博文の裏献金疑惑、森友学園問題では財務省の役人たちによる公文書の改ざんまで発覚し、いずれも検察の捜査は不発に終わった。黒川がどう立ち振る舞ったかは明らかになっていないが、首相官邸が恩義を感じてきたのは間違いない。

 

 黒川については、これまでも法務検察の案を覆す人事が度々おこなわれてきた。なかでも今回は耳を疑うような人事介入だといえる。

 

 実は、その前兆は昨年11月に遡る。このとき法務省が、今年2月8日に63歳の定年を迎える黒川東京高検検事長の後継人事案を提出した。新たな検事長に据えようとしたのが、現名古屋高検検事長の林真琴だ。

 

 黒川と司法修習35期の同期である林は、検事総長を争うライバルと目されてきた。東京高検検事長は検事総長の待機ポストと位置付けられ、この時点で法務検察は黒川ではなく、林を総長に据える意思を官邸に示したことになる。

 

 だが、首相官邸はこれを差し戻した。「黒川を検事総長として処遇するように」と伝えたと聞く。検事総長の稲田伸夫が黒川の63回目の誕生日である2月8日の前に退任し、後継総長として黒川が1月中に就任するというシナリオである。

 

 しかし、稲田は退任せず、そのシナリオは頓挫。挙げ句、安倍政権は検察庁法に存在しない検事の定年延長を1月31日に閣議決定する。そして今国会でそれをあと付ける最長3年の定年延長の法改正を持ちだしたのである。

 

 そこからネット上で反対運動が盛り上がると、流れを引き戻そうと、櫻井インタビューを画策。皮肉にもネット番組で墓穴を掘ってしまった。

 

 定年延長という浅はかな発想を持ちだしたのは誰か、あと付けの法改正をしようとしたのは誰か。いまや官邸内はその責任追及で火花を散らしているという。ある官僚に聞くと、こう打ち明ける。

「黒川といえば、一般に菅(義偉)官房長官に近いイメージがあるかもしれません。しかし、菅さんは昨秋以降、重要決定の場から外され、総理から遠ざけられています。黒川さん自身他に官邸人脈がありますから、動いたのはそちらでしょう」

 

 検察庁法改正の見送りの判断については、首相と官房長官が差しで話し合って決めたともいわれる。“官邸内政局”が勃発していると伝えられる。

 

◆「花見の会」の疑惑

 

「安倍総理は法務検察という組織をぜんぜん理解していませんね。法務省と検察庁は別の組織ですから」

 

 数々の疑獄事件を手掛けたある検察OBに聞くと、一連の動きについてそうつぶやいた。安倍首相は、検察官も他の国家公務員と同じ行政官なのだから、国公法に定められている定年延長を認めるべきだ、と念仏のように唱えてきた。だが、それは明らかに違う。

 

 一口に法務検察といわれる組織は、行政官庁である法務省と独立性を担保されてきた検察庁に分かれる。

 

 その検察庁の元をたどれば、明治時代の大日本帝国憲法下、裁判所内の「検事局」として発足している。終戦を迎え、裁判所法と検察庁法が整備され、裁判所から分離して今の検察庁と改編された。このとき検察官定年を63歳と定め、検事総長を65歳とした。

 

 一方、国家公務員法は検察庁法に遅れて47年5月に制定され、ずっと定年はなかったが、1980年代に定年制を設け、定年延長も許されるようになる。検察官は国家公務員ではあるが、定年延長がないのは、誰がやっても捜査や起訴に公平性がなければならないからだ。

 

 ここから検察官は独立した特例の存在となり、検察庁法が国公法より優先されることも明記された。検事総長が法務検察のトップと格付けられているのは、検察庁が法務省より上位組織であることを意味する。

 

 だが、今度の定年延長は、官邸がそんな組織論を理解せず、検察官の人事に手を突っ込んできた結果、というほかない。

 

 過去、安倍政権は2016年9月と2018年1月の2度、法務省人事に介入してきた。いずれも黒川のライバルの林を事務次官にしようとすると、官邸が差し戻し、林に代わって黒川が事務次官を務めてきた。したがって今度は3度目の政治介入となる。が、過去の事務次官はあくまで法務省人事であり、検察庁人事ではない。

 

 法務省の幹部人事は他の霞が関の省庁と同じく、内閣人事局が決定権を持つ。内閣人事局を差配してきた官房長官の菅が了解していなければならなかった。そのため、この時点では菅の関与は間違いない。

 

 だが、検察官の定年延長は、これまでの霞が関の官僚支配とは別次元の話である。検察庁のトップ人事は内閣人事局があってなお、政治の立ち入れない特別な存在として扱われてきた。

 

 これまで何度も人事を差し戻してきた官邸が、法務省に従っただけと突っぱねるには、さすがに無理がありすぎる。「法務省が決めた」という真っ赤な嘘がバレそうになり、改正法案を引っ込めた安倍政権。ここまで「官邸の守護神」にこだわろうとする理由はなぜか。ひょっとすると、「花見の会」の疑惑を封じ込めるためだったのではないだろうか。

※週刊ポスト2020年6月5日号