◎日本の未来を見据えていた12人(第5回)「桂太郎」

(倉山 満:憲政史研究者)

 

 

 桂太郎、間違いなく憲政史最高の総理大臣である。

 

 3度にわたり、内閣を組織し、つい最近まで史上最長の在職日数を誇った。どこかの誰かと違って、ただ長く居座っただけではない。大日本帝国を世界の一等国に引き上げた、偉大な宰相である。だが、正当評価をされているとは言い難い。その生涯を振り返ってみよう。

 

桂太郎(出所:Wikipedia)

© JBpress 提供 桂太郎(出所:Wikipedia)

 

 

ドイツで学んだドイツ軍の強さの秘密

 幼名は寿熊。弘化4(1848)年、長州藩の上級武士の子として生まれた。藩主毛利敬親に小姓として仕える。

 

 幕末維新の動乱では、大きな活躍はしていない。吉田松陰や高杉晋作のような維新を見ることなく命を散らした世代はもちろん、木戸孝允・井上馨・伊藤博文・山県有朋らからみても世代は下である。長州藩は、佐幕か討幕かで派閥抗争が激しく、維新回天を志す正義派が、現状墨守の勢力を俗論派と呼んで激しく抗争した。まだ子供の桂は心情的には正義派であるが、藩内政局と関わることが無かった。

 

 戊辰の役では東北地方を転戦している。桂は大きな武勲は立てていないが、目端が利く若者として目を懸けられた。木戸に頼み込み外国留学を志す。しかし、官費での留学が困難と悟るや、私費でヨーロッパに向かった。時は、普仏戦争の真っ最中。鉄血宰相ビスマルクの卓越した政治指導の下、モルトケ参謀総長によく訓練されたプロシア軍がフランスを破竹の勢いで打ち破った。そしてビスマルクはドイツ帝国を建国する。

 

長州藩士時代の桂太郎(出所:Wikipedia)

© JBpress 提供 長州藩士時代の桂太郎(出所:Wikipedia)

 

 

 

 桂はフランス語を学んでいたにもかかわらず、ドイツ留学に切り替えた。桂はドイツ軍の強さの秘密を学び、3つの面で成果を上げた。1つは学理的な研究である。軍事学の基礎を身に着けた。2つは実務である。ドイツ軍の強さの秘訣はモルトケの作り上げたシステムにあったが、桂は日本に輸入しようと「大事は小事まで」と細かく観察し、身に着けた。そして3つは、幅広い教養である。ドイツ軍の強さは分業と動員体制にある。桂は、前線の戦闘部隊だけで軍が成り立つのではなく、後方の兵站、平時における政治との関係や経済体制も含めて総合的に成り立っていることを見抜いた。法律学や経済学の素養も身に着けた。

 

 当時の日本人は――特に大久保利通や伊藤博文のような国を首班として率いる政治家こそ――ビスマルクに憧れたが、その政治主導を学理実践の双方で最も学んだのが桂だった。

「ニコポン政治家」、独断で兵を動かす

 帰国後の桂を重宝するのが、日本陸軍建国の祖である山県有朋である。山県は桂の最新の生きた知識を求め、列強に対抗できる陸軍の創設に邁進する。山県が陸軍で重きをなすにつれ、桂も引き上げられた。

 

 1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布された。施行は翌明治23年11月29日の帝国議会開会の日である。この日が我が国憲政の始まりである。その時の総理大臣は山県有朋、桂は陸軍次官として仕えた。

 

 初期議会において、衆議院は自由民権運動の牙城である。第一党は板垣退助を首魁とする自由党、第二党は大隈重信を首領とする改進党である。薩長藩閥政府の元老は、枢密院・貴族院・陸海軍・官僚機構は掌握していたが、選挙で選ばれる衆議院にだけは手が出せない。しかも彼らは国家の意思である予算を掌握している。薩長の内閣は必ず予算問題で衆議院と対立し、次々と退陣に追いやられた。二大政党に政権担当能力は無いのだが、拒否権だけは行使する。

 

 桂は山県に仕えた第1回議会から、政党に予算を削られまいと奔走することとなる。桂の代名詞は「ニコポン政治家」である。ニコッと笑って肩をポンと叩けば、相手を篭絡するから「ニコポン」である。また、八方美人と冷やかされた伊藤博文が、「ならば桂は十六方美人だ」と評したことがある。だが、桂は妥協を繰り返しつつも、来るべき大陸での戦争に備えて陸軍充実に邁進した。

 

 単なるニコポンではない、桂の果断を示す逸話がある。第3師団長として赴任していた時、濃尾大地震に遭遇した。阪神大震災で知事の要請が無かったので、自衛隊が動けず大惨事となったのは今でも記憶に新しいだろう。実は、帝国陸軍も同じなのである。知事の要請無しに現地の師団長が陛下の軍を動かせば統帥権干犯であり、下手をすれば軍法会議で死刑である。しかも当時の陸軍大臣は高島鞆之助、人付き合いの良い桂が、珍しく苦手としソリが合わなかった人物だ。そうでなくても桂の失脚を目論んでいる。だが、桂はそのようなことは顧みず、知事の要請の前に独断で兵を動かし、復旧復興で人命を救った。桂は待罪書を持参して宮中に参内したが、地元首長や住民からは感謝状が殺到しており、かえって明治天皇からはご嘉納を賜った。高島も手が出せず、辞表は却下された。桂は、統帥権独立が何のためにあるのかを示した。

世界の大英帝国を振り向かせ同盟締結

 明治27年からの日清戦争では派手な軍功は無いが堅実に勝利を重ねた。戦後は初代台湾総督として赴任する。その後、伊藤・大隈・山県・伊藤の4代の内閣で陸軍大臣を務める。相変わらず、議会対策が仕事だ。

 

 この間、隣国の清で義和団事件~北清事件が発生し、日本は八カ国連合軍の中核として事件収拾にあたる。この時、強硬論を唱える外務省に対し、国際協調を旨とした穏健論を唱えたのが桂だった。ロシアは事変後も満洲に居座り、イギリスの警戒感を招く。自然、日本への好感へと変わった。桂の大局観に基づく構想が、これを読んでいたのだった。

 

 国際情勢が緊張する中、国内の政争に悩む元老筆頭の伊藤は考えた。自分が衆議院の第一党を率いれば、政治は安定するのではないかと。そこで板垣系の代議士を糾合し、傘下の官僚を引き連れ、立憲政友会を設立した。だが、今度は党内がまとまらない。伊藤は政権を投げ出し、やがて総裁の椅子も西園寺公望に譲り渡すこととなる。その政友会の牛耳を執る用になるのが、原敬である。桂の政治的盟友かつ終生の仇敵となる人物である。

 

 明治34年、伊藤が政権を投げ出した後の政権は、桂に回ってきた。元老が誰も入閣せず、「二流内閣」と呼ばれた。第二世代の桂を筆頭とする大臣ばかりだったからだ。だが、この内閣が日本史に残る偉大な業績を上げるのだから、世の中わからない。

 

 桂は、清に居座り、朝鮮をわがものと扱うロシアに対抗するため、日英同盟を進める。ただし、世界の大英帝国が極東の小国を相手に対等の交渉をする訳が無い。桂は伊藤博文をロシアに派遣し、提携交渉を行わせる。もちろん、そんなものが成功するとは思っていない。本音は、イギリスに対する弱者の恫喝だ。日本の動きを知ったイギリスは、それまでの「光栄ある孤立」を捨て、日本との同盟を選ぶ。この間、桂は緻密に緻密を重ねた動きで「ダブルディーリング」であると思わせない細工をした上で、イギリスを振り向かせた。

 

 明治35年、日英同盟は結ばれた。

戦時に明らかになる指導者の資質

 そして明治37(1904)年、国運を懸けた日露戦争に突入する。陸に海に連戦連勝、日本国は挙国委一致で戦争に邁進し、薄氷の勝利を積み重ねた。

 

 この間、桂は自分の仕事を3つと心得た。

 

 1つは外交。開戦の決断と辞め際の見極めである。開戦当初からアメリカの仲介を得るべく、高平小五郎駐米公使に加え、セオドア・ルーズベルト大統領の知己である金子堅太郎を派遣して、外交に務めていた。

 

 2つは戦費の捻出。桂の議会対策では、軍拡と健全財政を旨としていた。戦時には外債募集と増税を行わねばならないからだ。必死に英米から借金をし、国民には増税に次ぐ増税で耐えてもらった。なお、当時の選挙権は納税額によるが、この時の増税で有権者は3倍に拡大している。

 

 3つは、人心の統一である。丸々2年続く戦いに、人心は疲れていた。それを桂は支えた。国民の結束こそが戦いを勝利に導くと桂は知っていた。逆にロシアでは革命が起きている。

 

 また、桂は軍事には極力口を出さず、現場に任せた。ただし、現場の暴走は戒めた。

 

 さて、今次コロナ騒動を、各国の指導者が「戦争」と称した。我が国の総理大臣閣下も御多分に漏れず「戦い」にたとえた。ならば、「いつ戦いを終えるのか、条件を明示した上で、好機が訪れたら果断に行う」「戦いの裏付けとなる財源を確保する」「人々の心を支え、国として結束する」が総理大臣の仕事である。

 

 そのすべてを行わず、現場に判断を丸投げしている史上最長任期の総理大臣と桂を比べるのは、並べるだけ非礼であろう。

「情意投合」の桂園時代

 桂は日露戦争を勝ち抜いた。その代償は、政友会への政権譲渡だった。原敬は戦争への協力の代償として、政権を要求した。桂は日本の安全保障環境が安定させたうえで、西園寺公望に政権を譲渡する。

 

 桂と西園寺は、肝胆相照らす仲だった。西園寺は桂の外交路線を継承する。ヨーロッパ情勢の緊迫に乗じ、日英同盟と露仏同盟を結ばせた。明治40年は「協商の年」と呼ばれる。日仏、日露、英露の3つの同盟が立て続けに結ばれたからだ。日露戦争中、既に英仏協商は結ばれている。これで日本はロシアの復讐に備えなくてよくなった。ここに日本は、幕末以来の緊張から解き放たれた。

 

 政権は再び桂に戻る。「桂園時代」である。桂が首相に就任してから12年間、2人が政権をたらいまわしにした。藩閥官僚を率いる桂と衆議院を抑える政友会総裁の西園寺が組めば、他の人々は手出しができない。だが、それだけに体制内の暗闘は熾烈だった。桂内閣が退陣する時は原敬の恫喝が、西園寺内閣が辞める時は山県有朋の陰謀が存在した。そして政権交代の際は桂と西園寺が談合し、元老会議を開かせなかった。桂園時代は恫喝と陰謀による「情意投合」の時代だったのだ。

 

 第2次内閣で、桂は悪化したアメリカとの関係を改善する。高平ルート協定である。これで安全保障上の問題を完全に除去した。ルーティンワークで朝鮮を併合し、関税自主権を回復して不平等条約改正を達成した。日露戦後の財政難に対処するために自ら大蔵大臣を兼任して対処した。

 

 だが、それより何より桂が望んだのは、日本をイギリスのような二大政党制の国にすることだった。

 

 桂園時代とは、官僚と衆議院第一党による談合である。何回選挙をやっても必ず政友会が勝つ。彼らは田舎の地主の代表であり、国益よりも私利私欲を優先する。官僚も自らのセクショナリズムで国益を蔑ろにする。健全な政権交代が無いので、そうした腐敗を浄化する手段が無い。桂自身も「ニコポン」で「情意投合」に不本意ながら務めてきたが、政友会に対抗できるもう1つの政党の必要性を痛感していた。

 

 だが、それを決意した時には、桂の体は癌に蝕まれていた。

 

 今、日本はすべての周辺諸国の靴の裏を舐めて生き続けている。内政においては既得権益層が利権を貪るが、国民は最低限の景気回復すら達成できない状況に甘んじている。どころか、災害対策すらできない政府、官僚と自民党に絶望している。

 

 桂の時代より、後退している。

 

 これを羊のように我慢するのか、獅子のように振り払うのか。

 

 我々自身の決心である。