今年の5月、あるツイートが話題になった。それは、生まれて初めて痴漢に遭って、声も出せなかった中学生に、保健室の先生が安全ピンを渡して「声出さなくていいんだよ」「次痴漢が出たらそれで刺しな」と助言するものだった。

 

 これに対し、ツイッターでは「傷害罪が成立する」「人違いのえん罪が起こる」「血液を媒介とする感染症のリスクがある」などの批判と、「正当防衛だ」という反批判が吹き上がった。

 

 これを見ていて、まず「痴漢を安全ピンで撃退する」という話題が、ここまで盛り上がること自体に驚いた。

 

 私がはじめて痴漢を安全ピンで撃退する話を聞いたのは、高校生の時だった。30年前から言い伝えられてきた方法なので、みんな当然知っていることだと思っていたのだ。

 

 そういえば、大学生のころ、男友達に「女の子って、1年に何回くらい痴漢に遭うの?」と聞かれてのけぞったことがあった。

 

「1日に4回くらいだよ」と言ったら、今度は男友達がのけぞった。

 

 この時の私と男友達の認識の差は、痴漢の認知件数と被害実態の差でもあったのだろう。

警視庁が東京都で認知した痴漢事件は何件?

 警視庁は、毎年、ホームページで「 こんな時間、場所がねらわれる 」という表題で「都内における性犯罪(強制性交等・強制わいせつ・痴漢)の発生状況」を発表している。

 

 法律的には、痴漢は、強制わいせつと迷惑防止条例違反の2種類だ。衣服・下着の上から触れば迷惑防止条例違反、衣服・下着の中に手を入れれば、強制わいせつとされることが多い。

 

 警視庁の統計によると、平成29年中、都内で強制性交等は約170件、強制わいせつは約700件、痴漢型の迷惑防止条例違反は約1750件である。

 

 警視庁の統計にある強制わいせつは、痴漢に限られないが、発生場所の15.5%が電車内である。これが全て痴漢に当たると仮定すると、痴漢型の強制わいせつは、700件×15.5%=108.5件となる。

 

 つまり、警視庁が平成29年東京で認知した痴漢事件は合計1858.5件、1日平均約5.09件となる。

 

 では、痴漢被害の実態はどうか。埼玉県警は、平成28年、県内の女性を対象に「 痴漢犯罪の抑止について 」という表題で簡易アンケートをとった。

 

「あなたは、これまでに痴漢の被害にあったことがありますか」という質問に対して、「はい」と答えた人が67.1%、「いいえ」と答えた人が32.9%であった。東京で逮捕されたすべての痴漢が埼玉と東京を結ぶ埼京線に乗っていたとしても、67.1%の痴漢被害体験者が累積することはありえない。いかに多くの痴漢が野放しになっているか、ご想像いただけるだろうか。

 

 斉藤章佳著「男が痴漢になる理由」には、痴漢250人に対するヒアリングの結果が載っている。彼らは性嗜好障害という依存症となっており、痴漢行為を止めることは容易ではない。野放しにされた痴漢は、また電車に乗るのである。

40.2%の被害者が「その場で対応できた」と答えたが……

 では、なぜ痴漢は野放しにされてしまうのか。痴漢被害にあった人のうち、「あなたは、痴漢の被害にあったときに、その場で何か対応することができましたか」という質問に対して、「対応できた」と答えた人が40.2%、「何もできなかった/我慢した」と答えた人が59.8%であった。

 

 一瞬「意外にみんな対応することができたのだな」と思ったのだが、「対応できた」の内容が問題であった。

 

「その場から逃げた、移動した」が52.0%、「手を払いのけたり足を踏んだりして抵抗した」が45.9%、以下「身をよじった」「カバン等で防いだ」という消極的な対応が上位に並び、「警察に通報した」人は6.1%、「犯人を捕まえた人」は、わずか5.1%しかいなかった。

 

 つまり、痴漢被害者のほとんどが泣き寝入りしているのである。

痴漢を逮捕しても、実刑にはなかなかならない

 しかも、無事、痴漢を逮捕することができても、痴漢被害者の気持ちは晴れない。

 

 痴漢の初犯は、迷惑防止条例違反なら罰金20万円から30万円、強制わいせつなら間違いなく執行猶予がつく。5~6回逮捕されれば実刑になり得るが、痴漢の初犯で刑務所に行くことはまずない。

 

 それでもなお、起訴前に示談が成立して不起訴になれば、前科がつかないので、逮捕されたら示談したいと弁護人に希望する痴漢加害者は多い。

 

 通常、示談と言えば、加害者が罪を認め、被害者が寛大な処分を求める内容が多い。しかし、痴漢の場合は、接触した可能性があることは認め、不快な気持ちにさせたことにつき金銭を支払うが、わいせつの意図はなかったと主張するタイプの申入れもある。これでも痴漢被害者が金銭を受け取ったら、前科はつかない。

 

 痴漢加害者は、逮捕されれば、当番弁護士制度の対象となるので、弁護士は、初回相談無料で接見に来てくれる。

 

 引き続いて、痴漢加害者が勾留され、資力要件を満たせば、被疑者国選弁護の対象事件となるので、国費で弁護士をつけることもできる。

 

 近年、東京地裁は、痴漢で逮捕されても、同じ路線の電車に乗らないことを誓約すれば、原則として勾留しないことにしている。毎年出ている犯罪白書を見れば明らかだが、痴漢加害者は、他の犯罪と比べて、圧倒的に有職者が多い。勾留がつかない場合は国選弁護の対象とならないのだが、弁護人の費用を支払える者が多いので、自費で私選弁護人をつける傾向が高い。

 

 痴漢被害者は、勇気を振り絞って痴漢を突き出したと思ったら、警察から電話で「加害者の弁護人が示談交渉を希望しています。あなたの連絡先を教えてよいですか?」と聞かれる。

 

 痴漢被害者にとって、これは怖い。弁護人とは言え、加害者側の人間に、氏名と電話番号など教えたくない。

被害者をサポートする制度があっても……

 痴漢は性被害なので、痴漢被害者の資力が300万円以下であれば、日弁連の委託援助事業のうち、犯罪被害者法律援助を利用して、痴漢被害者側が金銭の持ち出しをすることがなく、弁護士の援助をつけることができる。

 

 しかし、痴漢被害者に弁護士がついたところで、被害弁償を受け取れば、痴漢が起訴されない現実は、痴漢被害者を落胆させるに十分だ。

 

 痴漢を安全ピンで撃退する話は、多くの痴漢被害者が泣き寝入りしている状態で、いわば「心のお守り」のように言い伝えられてきたと私は思ってきた。

 

 もちろん、いくら痴漢であっても、人の手をピンで刺せば、傷害罪の実行行為にあたることは間違いない(詳しくは後述するが、痴漢が急迫不正の侵害にあたることを理由に、「正当防衛」にあたるという見解もある)。

 

 警察OBに「安全ピンで刺すのはダメ。ノック式のボールペンの芯を出さずに手の甲を刺すと、痛いし、跡は残るし、怪我しないし、お勧め。ペンならなんでもいい」と教えていただいたことがあり、同じ「心のお守り」ならボールペンにしてほしいとは思う。

 

 しかし、思いあまって安全ピンで刺してしまった人を孤立させてはいけない……と悩みながらツイッターを眺めていたら、「大阪名物パチパチ弁護士」が「とりあえず、ワシは『痴漢を安全ピンで刺した女性がトラブルに巻き込まれたとき対策弁護団』を今設立した。無償で弁護したる。弁護団員も大募集中や。このツイート拡散したら、痴漢被害減るかなあ。減ってほしいわ。」とツイートした。

 

 私は、反射的に「東京の対応します。」とリプライをした。弁護団は、あっという間に15人になった。

痴漢に安全ピンで反撃したら制度のエアポケットに

「無償で弁護したる」とは大胆だが、それには訳がある。

 

 痴漢被害者が、痴漢に安全ピンを刺したことで、傷害罪の加害者となった場合、在宅事件(*)となる可能性が極めて高い。すると、被疑者国選弁護の対象とならず、国費で弁護士をつけることができない。

 

*……被疑者が警察署の留置所や、拘置所で身体を拘束されずに、捜査が進められる事件

 加害者になってしまっているので、前述の日弁連の犯罪被害者法律援助を使うこともできない。

 

 痴漢に安全ピンを刺した人は、制度のエアポケットに入ってしまうのだ。

「安全ピントラブル対策弁護団」のスタンス

 今回の「安全ピン」論争を目にした読者が一番気になっているのは、痴漢に対して安全ピンで反撃することは「正当防衛」か「過剰防衛」かということではないだろうか。そして、我々「安全ピントラブル対策弁護団」のスタンスについて気になっている方も多いのではないかと思う。

 

 安全ピントラブル対策弁護団も、痴漢を安全ピンで刺すことは、誰一人として推奨していない。痴漢した人とは別の人を刺すリスク、感染症のリスクの認識は一致しているからである。

 

 しかし、痴漢に安全ピンで反撃することに対する見解は「正当防衛だ」「過剰防衛だ」「少年法が適用される可能性が高いので、処罰される可能性が低い」などと、一致しない。安全ピントラブル対策弁護団の弁護士は、在住地域・性別も様々であり、電車の混み具合・揺れ具合・安全ピンの使い方について、想定する場面も違う。

結局、「正当防衛」なの?「過剰防衛」なの?

 たとえば、下着の中まで痴漢が手を入れてきたり、数人の痴漢で一人の被害者を取り囲んで触っているような悪質な場合に、思いあまって、つい安全ピンを取り出してチクリと軽く当てたような事案を想定すれば、正当防衛と考える方に近づくし、衣服の上から触り始めたばかりの時点で、安全ピンをブッスリ刺したり、ピン先でえぐるような場合を想定すれば、過剰防衛と考える方に近づく。

 

 また、正当防衛の成立には、「防衛の意思」が必要である。安全ピンで刺した場合、反撃の意思が併存している程度であれば正当防衛が成立するが、防衛の意思を通り越して積極的加害意思があると評価されてしまえば、正当防衛どころか過剰防衛にもならず、傷害罪が成立してしまう。

 

 このように、ケースバイケースで判断するしかないので、具体的な事件に直面しないと、「正当防衛」か「過剰防衛」かといった結論を出すことはできないのである。

 

 しかし、具体的な事件が起きるまで待っていたのでは、被害者が増えるだけだ。そこで、被害者の受け皿になるために、我々は、弁護団として名乗りを上げたのである。

 

 痴漢被害者の心理的孤立を防ぎたい、最終的には痴漢がいなくなってほしいというのが弁護団の願いである。

 

INFORMATION

 各種援助制度を利用できる場合があるので、全ての痴漢トラブルに無料で対応するわけではないが、痴漢を安全ピンで刺してしまって損害賠償を請求されているといった相談、痴漢を安全ピンで刺してしまったことで傷害罪の嫌疑をかけられているという相談に、意見書を作成して警察・検察と交渉することは無料である。

 

 詳しくはホームページをご覧いただきたい。

http://anzenpin.jtwla.com/