さよならFDK | esprit de finesse ~巧妙なる機知 

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何てことはない日常を徒然に書き綴っていきたいと思います。

正式には3/31付での退社なんだけど、昨日最終稼働日でした。

あとは脱退手続きのために31日に顔出して、挨拶して、返却物返して終わり。

不思議とサバサバした気持ちです。

2013年6月から勤務して、7年にちょっと足らず。

短くも濃い会社人生でした。



この会社とのご縁はeneloopから。

2010年に三洋電機がPanasonicに買収され、独禁法の関係でニッケル水素電池事業とリチウム電池事業がFDKに事業譲渡されました。

なので、それ以降は「PanasonicブランドのeneloopをFDKから購入して販売する」という不思議な関係性になりました。
こないだまで一緒にやってた工場の人たちがサプライヤーになった不思議な期間でした。

僕は2010年4月から図らずもパナソニック株式会社 エナジーデバイスカンパニー 市販事業統括部 グローバル営業企画部長として、FDKと向き合っていました。

FDKとは3ヶ月に1回「Quarterly Business Review」というサプライヤーとパーチェサーとの会議で顔を合わせる関係になりました。

こちらからは「あなたの商品をどんなところで、どのように、いくらで展開して、その性能や品質はこうですよ」というプレゼンをするというもの。

Panasonic側の海外営業とマーケティングのパートの発表者が僕だったという訳です。

ホントはこんなこと書いたらダメなのかも知れないけど、まあ時効ということで。

2012年4QのQBRの後の打ち上げから二次会でのこと。

両社の出席者で飲んで騒いで、12年度が上手く締まったことをお祝いしてる席にて。

当時のFDKの社長が「いやー、岡本さん、あなた面白いよねー。ウチはさ、もともとがOEMメインのメーカーなので、自社ブランドを売るノウハウがないんだよね。やっぱ自社ブランドが強くなければ怖いよね。OEM先にいつ『いらない』って言われるかなんて分からないもんね。もしPanasonicさん飽きたらウチに来てチカラ貸してよ」

なんて、冗談なのか本気なのか分からない感じで言われたのです。

元々が三洋電機に就職して24年間勤めた訳だし、当時はまだやっぱりパナソニックという会社、その文化、雰囲気に違和感満載でいたので、「ホンマですか?僕、本気で行きますよ」「いやー、ぜひぜひ」

なんて話をしてたのですよね。

それでもしばらくは日常に追われ、バタバタと仕事してたので、その話は忘却の彼方にあったのです。

が、あることをキッカケに再び思い出すことに。
それで、FDKにコンタクトしたのです。

そこからの展開は早かった。
一気に転職へ。

いわゆる同業への転職なので、風当たりは本当に強かったけども、もう一度自分の強みであるBrandingの仕事がしたいという思いを押し通しました。

当時の同僚・部下たちは「岡本とは連絡取るな」と言われ、彼らとは全く音信不通になりました。
最近になってようやく少しずつ何人かと·····という感じにはなってきましたが。

それだけ企画の責任者が全てのノウハウを持って、同業に転職するというのは掟破りだったわけです。

さらに悪いことに、そのエピソードを面白おかしく新聞記事にされてしまいました。

旧知の日経の記者と東京で飲んだあとに、予告無しにドカーンと記事が出されてしまい。。。
この時はこの業界で生きていくことを半分諦めたりもしました。


Panasonicからは当然猛烈な抗議が来て、当時のFDK経営陣はすぐに謝罪と説明に大阪へ飛び、僕はと言うと電池工業会において経緯についての説明を求められました。

結果、記者の暴走であることを日経がうすうす認めたため、何となく収束に向かうことにはなったけど、この時に前職との溝はさらに深いものとなってしまったのでした。

そこからですね、活動の軸足を海外にしたのは。

国内でこれ以上無用なコンフリクトは起こしたくないので、海外の、特に他社がまだ進出していない国を発掘して回ったのです。

まさにドブ板営業。
まだ戦時下のコソボやボスニア・ヘルツェゴビナなどの旧ユーゴ諸国や、ギリシャ、キプロス、ブルガリアなどのあまり裕福とは言えない国から着手していきました。

この頃は楽しかった。

時々ヤバイ目にも遭ったけど、この期間で随分強くなったというか、少々のことはビビらなくなった。

同時に、国内では「物売りではなく想いを発信しよう」と考え方を切り替えて、2015年に「世界最高の環境革新企業へ」という方針を内外に発表しました。

そこから環境活動を始めたんですよね。

最初の頃は小学校で環境授業をしたり、経済交流会などで「乾電池から充電池へ」というプレゼンをしたりをしてました。

が、「乾電池屋」のイメージが色濃いFDKからの発信はなかなか浸透せず、興味も持たれず、評価もされませんでした。

そんな時に目黒のライブハウスで折重由美子さんに再会したという訳です。

詳細は以前のブログに譲りますが、「この人の音楽に想いを載せてメッセージを世界に運びたい」と大きな衝撃を受けたのでした。

で、現在の太陽とツナガル電池の音コンサートが生まれたということです。

それからは「海外で物売り、国内で環境」の動きを徹底し、何となくFDKのブランド「FUJITSU BATTERIES」の立ち位置も出来てきて、現在に至ります。

この間、僕の下の人たちはホンマに大変やったやろなと。

訳分からんオッサンが突然やってきて、今までと全く違う手法を強いてきて、何かようわからんことやっとるし。。。という感じやったと思います。

現に何人かからそう聞いてます😅

まあ、でもFDKは全部任せてくれました。

何があっても信じてくれました。
在職中の僕の稟議書はひとつとして否決されなかったという。
これはホンマに感謝だし、この会社でなければ現在の自分は醸成されませんでした。

そこからはドタバタと年月を重ねて今日に至ります。


まだまだここでやりたいこと、やらないといけないこと、始めたいこと、いっぱいあります。

ここならやれるという案件もたくさんあります。

タラレバは言いたくないけど、身体さえ壊さなければ、もっともっと色んな世論を巻き込んで、もっともっとオモロイことが出来たのにという想いもあります。



でも、決めたこと。

前を向いていこう。

さよならFDK。
ありがとうFDK。