三十五光年の迷走
                                                                               佐保徹

  ここに引越して初めての手紙が届いた。
   その手紙はここに届くまで一年かかったようだ。きっと僕が住まいを転々としたせいかもしれない。
 僕が三十五年間探し続けていたものを、その手紙は届けてくれた。
   そして、 今年もやっぱり朝から雨だった。
    六月の下旬の梅雨真っ只中、今日は四十五回目の誕生日。僕が物心ついたときからの記憶では、晴れた日はあの日の一日しかなかったと思う。
    誕生日だと言っても、特別何らかのイベント的なことがあるわけでもなく、ここ数年祝ってくれる家族もいない。
 
   結婚してからずっと海外の天文台を渡り歩いていたので、一年を通して日本には数ヶ月程度しかいない生活が続いていた。
 それが全ての原因ではないとは思うが、子供が出来てもそんな感じだったので、妻は僕がやっと日本に戻ってきた時に、離婚届を用意して待っていた。
   それから二年ほど、親権問題や財産分与等で バタバタと過ごし、またちょうどその頃は論文の提出時期と重なり、なかなか離婚調停がうまくいかず、最終的には妻の要求を全て受け入れ、僕は娘を残して家を出ることになった。
 学者の収入なんて中小企業のサラリーマンと大差はない。下積み時代は他にアルバイトでもしなければ生活が苦しい。ある程度年齢がいけば、学会が注目するような論文でも書かない限り、役職を持ったサラリーマンの方が上かもしれない。
 子供を持つ母親としては、賢明な選択だったと納得するしかなかった。
 離婚後は定住場所を持たずに、研究室に泊まり込んだり、同僚の家にお世話になったり、ウィークリーマンションやネットカフェなどを転々として過ごした。
 そして、やっと僕の論文が偉い教授や学者さんたちに読まれるようになり、人前でも天文学者と名乗れるまでになれた。それと同時に、北関東の山間にある天文台に、正式な天文台職員の研究員として今年の春から勤務することが決まった。
 新しい職場である天文台は、僕が今住む街から車で三十分程山道を登ったところにあるため、毎朝国道沿いにある雑貨屋まで出て、同僚の車に拾ってもらっている。
    都会生活では移動になんの不便は感じなかったが、急に関東平野の最奥地に越してきたら、やはり車の免許は取っておくべきだったと後悔した。
    今日は早めに仕事が終わり、昼ちょっと過ぎに帰宅した僕は、門柱の脇に設置してあるポストを覗いた。
    沢山のチラシや引き落とし完了葉書等に紛れて封筒を見つけた僕はそれを取り出し、差出人の名前を見た。
   佐藤由香里と書かれていた。
    傘を持った手の力が一気に抜け、今まで守られていた僕の身体に雨が襲いかかった。そして頭から滴る雫が、僕を遠い三十五年前の今日に呼び戻した。
    あの日の彼女は、今の僕の様にびしょ濡れになったんだ。


   なんの躊躇いもなかった。
    僕はそれを見た時、廊下に置いてある水の入った消火バケツを思いついた。
    早くしないと、
    授業中だったが僕は席を離れ、廊下からバケツを持って来て、隣の席の佐藤由香里ちゃんの頭から水をかけた。
    彼女は席に座ったまま泣いていたが、僕は知っていた。彼女は僕に水をかけられる前から泣いていたことを。
    だから こうするしか無かったんだ。
    窓際の最後列、  せっかく大好きだった由香里ちゃんの隣の席になれたのに。こんなことになるなんて。
    僕の同級生はみんな知っている。梅雨の中休みの晴れた日に起きた。四年三組〈バケツ事件〉だ。

    僕の暴挙に、静かだった教室の中はざわめき、悲鳴をあげた女子も数人いた。
「何やってんだよ」
    由香里ちゃんの前の席の岩田が立ち上がり僕を押し倒した。
    倒れた僕は、由香里ちゃんの椅子の下に広がった水を見て、
 (まだ足りない)
    僕は立ち上がり、また廊下に出てバケツを持ってきた。
「佐藤に近づくな、お前らにもぶっかけるぞ」
    僕は今度は由香里ちゃんの正面に立った。彼女は避けようともせずに泣きながら下を向いていた。
「内山君、やめなさい」
    担任の小川先生が僕の腕を掴んだが、小柄で華奢な女の先生の腕では、四年生の子供とはいえ体格の良かった僕を止めることは出来ず、由香里ちゃんは正面から水を被った。

「先生、佐藤さんビッショリだから体操着に着替えた方がいいと思います」
    僕がそう言うと、さっきまでザワついていた教室が一瞬静かになった。
    僕の奇行を怖がっているみたいだった。
    数人の男子が僕を囲み、さっき僕を押し倒した岩田が僕を睨んでいた。
「お前、何言ってんだよ。自分でやっておいて、頭おかしいんじゃねーか」
    僕は岩田の言葉を無視して、由香里ちゃんの腕を掴み立ち上がらせた。
「早く、体操着持って着替えてこいよ」
    僕がそう言ったとき、岩田が僕の後ろから首を締めてきた。
「内山、佐藤に謝れよ」
    僕は何も言わず岩田のお腹に肘鉄をくらわし、殴り合いの喧嘩になった。
「二人ともやめなさい」
   先生が大声で怒鳴った。
「後でお話は聞くことにしますから、今は喧嘩してる場合ではありません。先生は佐藤さんと宿直室に行ってきますから、皆はここを片付けて、自習をしてて下さい。」
    先生はそう言って、佐藤さんを連れて教室を出て行こうとした。
「先生、俺が一人で片付けます。俺がやったから」
「そうね、分かったわ。こんな事をしたわけを聞きたいから、終わったら宿直室の前で待ってて」
「わけなんかありません。行きません」
    先生は深いため息をついて、僕にはもう何も言わず、
「内山君以外の人は、昨日の漢字ドリルの続きをやってください」
    クラスの皆に言って、由香里ちゃんを連れて出ていった。
    何人かのクラスの女子が水浸しの床を拭こうとしてくれたが、「僕がやるから、手を出さないで」彼女達の手から雑巾を奪い取った。
   僕はモップと雑巾で濡れた床を拭きながら、教室の窓から見える青空を見上げた。
    毎年僕の誕生日は曇りと決まっている。でも、今年はこんなに天気がいいのに、こんなことなってしまい、僕の心の中は分厚い雲に覆われている感じだった。
   家に帰ったら父に怒鳴られるかと思っていた。しかし、父は黙って僕の頭をぽんぽんと軽く叩くだけだった。
   たぶん小川先生は、由香里ちゃんを宿直室に連れて行き、着替えた時に僕の暴挙の理由を知ったのだと思う。
   事件はそれで終わらなかった。
   次の日、僕は一桁だった歳が一つ増え二桁になった。クラスの中で十歳になった人は、まだほんの数人しかいない。少し皆より大人になった気分の僕は、昨日のことを由香里ちゃんに謝ろうと思いながら登校した。
    ちょうど下駄箱のところで由香里ちゃんと会ったので、謝ろうとして彼女の側に寄ろうとしたら、由香里ちゃんは僕を見た途端に避けるように離れた。そして、奥にいた同じクラスの女子二人の所に駆け寄り、三人して僕をじっと見ていた。
「内山くん、また佐藤さんになんかしようとしたでしょう」
    女子の一人がそう言うと、
「行こう、行こう。また意地悪されるから近寄らない方がいいよ」
    もう一人の女子がそう言って、二人は由香里ちゃんの手を取り、階段を上がって行ってしまった。
    どうも僕は女子の嫌われ者になったらしい。
(しょうがないか、あれだけのことをしてしまったんだから)
    そんなことを思いながら、ボクも階段を上がり教室の中に入った。
「おはよう。」
    クラスの皆が、窓際に並んで僕の方をみていた。誰も「おはよう」と返してくれないことから、どうも、僕を皆で迎えてくれているのでは無いらしかった。
    僕が自分の席に鞄を置いた時、昨日殴りあった岩田が僕の前に立った。そして、水の入ったバケツを持った男子が僕の後ろに立っていた。
「なんで、佐藤にあんなことしたんだよ、わけが言えないんだったら、お前にも水かぶってもらうからな」
    岩田がそう言うと、バケツを持った男子が両手でバケツを持ち、胸の高さまで上げたのが分かった。
「佐藤さんが、そうしてくれって言ったのかよ」
「そんなこと言うわけねーだろう」
「じゃーなんで、お前らに俺が水かけられなきゃならないんだよ、お前は関係ねーんだろ」
「うるさい、皆で決めたんだ、早く言わねーと水かけるぞ」
    僕は、その皆という人達をぐるっと見回し探したが、数人しか見当たらず、大半の人達は、いま起きている目の前の事に驚いて見ている様子だった。
    さっき下駄箱にいた女子二人の後ろから僕をじっと見ている由香里ちゃんが見えた。
(ふっ、岩田の言う皆って何人なんだよ)
    僕は薄笑いを浮かべて、後ろに立つ男子からバケツを取り、自ら水を被った。
「わけなんて、ねーよ。ほら、これでいいんだろ」
    教室中に女子達の悲鳴が響いた。その後すぐに、泣き声が聞こえた。
   由香里ちゃんだった。
   岩田が僕に顔を近づけてきて、大声で怒鳴った。
「内山、お前が変なことばかりするから、また佐藤が泣いちゃったじゃねーかよー。どーすんだよ」
    あまりにも大声だったので、僕は耳を塞ごうとしたら、
「あなた達、何をしてるの」先生の声えがした。
「内山くんが、勝手に水をかぶったんです。僕は何もしてません」
    一番に岩田が言い訳をしたら、岩田の言うところの、皆と言われる数人が頷いていた。
    もちろんその後、クラス全員が先生に怒られた。
「昨日のことは、先生から内山くんに厳しく注意してあります。だからもう終わりです」
    最後にそう言って教室から出ていった。
    先生は嘘をついた。僕は厳しく注意なんかされていない。昨日の放課後先生に、
「もっと他の方法はなかったのかしら」と言われただけだ。
「他の方法って、先生だったらどうしましたか? 手を上げて『隣の佐藤さんが……』 って言いますか?」
   僕の質問に先生は何も言わなかったくせに、嘘つきだ。
    僕は悪いことなんかしていない。だから誰からも何も言わせないんだ。
   それから、このバケツ事件については誰も話さなくなり、僕にも何も聞いてこなくなった。その代わり、誰も僕と口を聞いてくれなくなった。 
    由香里ちゃんに、水をかけたことを謝ろうと、幾度か僕から話しかけようとしたのだが、いつも由香里ちゃんはスッと僕から離れて行ってしまう。
    その度に僕の胸の中のモヤモヤは凝縮された塊になって胸の奥につかえている感じがしていた。
   
    由香里ちゃんの家は市内のなかでは古くからの老舗お煎餅屋さんで、お父さんはお煎餅組合の組合長をしていた。
    僕達の住んでいるこの街は昔からお煎餅屋さんが多かった。なぜだか詳しくは知らないが、昔「おせんさん」という人が街道の茶屋で団子の売れ残りを平らに伸ばして焼いて売り出したのが始まりだと聞いた事がある。
 同級生にも、家がお煎餅屋さんだったり、親戚がそうだったり、一クラスに数人はいた。
    僕の家は、父が染め物工場に勤めてる普通の家庭だったけど、母が由香里ちゃんのお煎餅屋さんでパートをしていて、たまに母が持って帰ってくる割れせんべいの中にある、ざらめがたくさん着いたお煎餅が大好きだった。
   こんな事になる前は、由香里ちゃんとは仲が良かったんだ。幼稚園が同じで、お母さん達はママ友だったし、贈答シーズンの時はお煎餅の梱包の手伝いによく行っていた。家族一緒にデズニーランドや旅行に行ったこともあった。
    だから僕は、由香里ちゃんと結婚をしてお煎餅屋さんを継ぐ将来を勝手に夢見ていた。

    夢は簡単に崩れた。
    でも辛くはなかった。
    自分のした事は間違っていない。  あれで良かったんだ。そう思いながら毎日遠くから大好きな由香里ちゃんを見ていた。
    どうして水をかけたのか、僕と由香里ちゃんしか知らない。
   誰も知らなくていい。
    僕はいつも、教室では一人ぼっちだった。誰も話しかけては来なかった。
    (いいんだ、これで)
    あの時、椅子に座っていた由香里ちゃんは、自分の机を見つめたまま震えながら泣いていた。
    泣いてるわけを知ってしまったんだ、 だから、水をかけた。
    もし何もしなかったら、僕ではなく由香里ちゃんが一人ぼっちになっていたかもしれない。
    由香里ちゃんを守ったんだ。
   なのに……
   由香里ちゃんも、みんなと同じように、一言も口を利いてくれなくなった。

    友達と遊ぶこともなく、いつも教室で一人だと何もすることがない。
 あまり好きではなかったが、仕方なく勉強をしていたら、いつの間にか僕はガリ勉の秀才君になっていた。それを聞いた東京に住む予備校講師をしている叔父が、中学受験を勧めてきた。
 そして五年生に進級の春に、僕は叔父の家にお世話になりながら都内の小学校に転校した。その二年後、中高一貫の有名私立を受験をし、入学をした。
    叔父に勉強を見てもらっていたおかげで、成績優秀生徒として高校に進学し、二年生頃から天体に興味をもった僕は、高校卒業後、天文学を学ぶためにハワイの大学に進学した。

    埼玉東部の街から遠くハワイのホノルルに来ても、いつもずっと心の中に引っかかるものがあり、消えることがなかった。
    どうにもならない、持って行き場のないモヤモヤが凝縮した塊はあの頃から胸の中でつかえたままだった。 
     その塊には鍵穴があり、多分その鍵穴に鍵をさせばモヤモヤの塊は粉々になって消えるような気がする。しかし、今の僕はその鍵を持っていない。あの街に残してきてしまったんだ。
    あの街に戻って鍵を見つけ、塊を解錠すればスッキリするのは間違いないと思う。しかし、僕は心のどこかであの街に戻ってはいけないと思っているみたいで、僕の身体があの街に行くことを拒んでいた。
    あの街から離れ、日本からも離れ、そして宇宙に興味を持ったのも、少しでも遠くに離れようとしている証だとすれば、結果的に僕は、あの日のあの場から逃げて来たのではないかと感じる時がある。
 どこに逃げても、胸の中でつかえている塊は消えることはなく、大学、大学院を卒業し、世界各地から広い宇宙を眺めていても、時折あの街の、あの小学校の、あの教室が見える時がある。

「宇宙の遠くを見ることは過去を遡ること」初めて宇宙科学の本を読んだときに書いてあった。あの頃はこの文句がとても衝撃的で、ワクワクしたことを覚えいる。
 そして、一光年とは光が一年かかって進む距離であることを学んだとき、五百光年離れた星から見える光は、五百年前に放たれた光であり、五百年も過去の光を今見ていることにも衝撃を受けた。
 極めて単純な考えではあるが、三十光年離れた星の出来事を今見えたとしたら、それは三十年前の出来事だと言える。もし、僕の意思を光より早い速度でこの星に飛ばすことができたとしたら、そんなことを想像すると、広い宇宙の中に、あの街の、あの小学校の、あの教室が見えてもおかしくはないような気がした。
    どこに逃げても、モヤモヤの塊りは僕の胸を苦しめ、 その度に、あの時にした事は、正解だったのだろうか? と自問自答してしまう。
    そして、年月が経つに従って自分のした事を、正しかったと正当化すればするほど、あんなに大好きだった由香里ちゃが嫌いになってきている自分がいた。


    僕は、落ちた傘を拾い、家の中に入った。
    びしょ濡れの僕は、そのまま上がり台所のテーブルに手紙を置き、脱衣場に行きシャワーを浴びた。
    いったい、今頃なんの手紙だろうか。同窓会の知らせなら手紙ではなく、通例は往復葉書のはずだ。それと、苗字が佐藤と書いてあった。婿養子を取ってあの煎餅屋さんを継いだのだろうか。
    そんな事を考えながら、着替えてコーヒーを淹れようと台所に入ったとき、携帯電話が鳴った。
「お父さーん、元気してるー」
  電話は今年高校生になったばかりの、娘の美織だった。
「あぁ、元気かどうかは分からないが、特別病気も無く健康的に生きてる」
「そうじゃなくて、全く相変わらずだね。だからお母さんに愛想尽かされちゃうんだよ。こういう時はね、可愛い娘と離ればなれになって寂しい、とか言うものよ」
   美織は電話の向こうで怒っているみたいだ。
「そうだな、やっと日本に戻れたのに、早々の一人暮らしはやっぱり寂しいかもしれないな」
「でしょう、でしょう。だからね、今晩からお父さの愛娘はお父さと暮らすことになりました」
「はぁ、何を言ってるんだ」
「はぁ、じゃなくて、そういう事だから。今晩の最終でそっちの駅に着くから、迎えに来てね」
    そう言って切ってしまった。
    もう少し詳細を知ろうと、直ぐに別れた妻に電話をしたら、二日前に新しくお父さになる人と顔合わせをした美織は、どうしても好きになれなくて、妻と喧嘩をして家を出て行ったそうである。
    多分これは僕の想像だが、好きになれなかったのは、新しいお父さではなくて、その人と暮らすと言い出した母親に対しての感情だったのではないだろうか。 これはあくまでも僕の想像で、真相はそのうち分かってくるだろう。僕らの子供とはいえ、美織の気持ちは大切にしてあげたい。
    僕はコーヒーを一口飲んで、さっきテーブルに置いた手紙を引き寄せ、もう一度宛名と差出人の名前を見た。
   宛名には内山浩と書いてあり、裏の差出人には佐藤由香里と書かれていた。やはり、あの由香里ちゃんから僕に届いた手紙に間違いないみたいだった。
    封を開けようと、ハサミを取りに立ち上がった時、急に窓の外から日が差してきた。僕は急いで勝手口から外に出て空を見上げた。
    朝から一面グレーだった空が、所々切れて青空が見え始めていた。
    今日は違う、いつもの年の今日と違う様な気がする。
   そうだ、この手紙を手にしてからだ。
    今日で僕の人生は四十五年になる、今まで僕宛てに手紙など貰ったことがない。しかも初恋の人からの手紙となれば嫌なはずがない。そして美織からの、まさかの電話。もう声を聞くことなどないと思っていただけに、嬉しかった。
    おまけに雨が定番だった今日が晴れそうである。
   まだ何か起こるのだろうか?
    遠くの雲の切れ間から指す陽の光がとても眩しく見えた。やっぱり今日はいつもと違う。
   僕は台所に戻り、封筒を開けた。


    やっと見つけました。所在が転々としていたようで、なかなかこの手紙を届けることができませんでした。最後の手紙になるかもしれないので、今度こそ戻ってこないことを願いながら出しました。
    小学生の四年生だったとき、私にバケツのお水をかけたあの事件、覚えていますか。あの日、小川先生に連れられて宿直室で着替えていた時、先生は気づかれていたみたいで、でもそれについては何も言わず、内山くんに後でこっそりでいいから「ありがとう」って言えるかなと、優しく言われました。私は頷いて返事をし たんだけど、あれから浩くんに近寄れなくなっちゃっ て「ありがとう」が言 えなかった。
    あの頃の私は自分のことしか考えられなくて、浩くんが私に水 をかけた訳を追求されてた時、とても怖 かったの。でも、浩くんは言わなかったでしたね。クラスメイトの数人から意地悪な事された時も、自ら水を被ってまで言わなかった。あのときどうしたらいいのか分からなくて、泣くしかなかった。それからも浩くん、本当のこと言わなかっ たからみんなに嫌われちゃって、いつも教室で一人だったよね。私のせいだっ たんだよね。なのに、私は浩くんにあんな姿見られちゃって、とても恥ずかしくて、嫌われたと思った。浩くんは私をいつも睨んでたから、よけい話せなくなちゃったの。
    自分のことしか頭になかった。幼稚園以来、久しぶりに浩くんの隣の席になれて、すごく嬉しかったのに、全然お話し出来なくなっちゃった。あのとき、授業中でも手を上げて先生に申告して、教室を出るべきでした。でもそんな勇気なくて、しかも一人ぼっちになってしまった浩くんを見て見ぬふりして、そして、浩くんが転校しちゃって、私が浩くんの居場所を奪ってしまったんだよね。それなのに、心の片隅に少し楽になった自分がいました。こんな私だもん、嫌われてもあたりまえですね。
    大人になってから、浩くんのした事の本当の意味と、とても勇気がいる行動だったことを分かるなんて、私って本当の馬鹿だね。
    我が身可愛さで、何も言えなかった私を許してとは言いません。でも、あの頃ちゃんと言わなければならなかったこと、遅くなっちゃったけどここで言わ せてください。
    ありがとう。そして、ご めんなさい。浩くんのおかげで恥ずかし思いをせずに、済みました。そしてお友達との楽しい思い出もたくさんできました。会って謝りたかったけど、私、半年前から子宮腺癌で入院してるの。お手紙ですみません。
    浩くん、今は立派な学者さんになって、落ち着いた生活が出来ていると聞きました。くれぐれも、身体を大切にして下さいね。



 鍵が届いた。
 自分で探しに行けなかった鍵を、ゆかりちゃんが届けてくれた。

 子供だったんだ。
 生意気なことばかり言ってはいたが、自分を犠牲にしてまで守る、そんな無償の行動ができるような大人じゃなかったんだ。
  由香里ちゃんの気持ちまで考えられなかった。僕だって自分勝手なことばかり考えていた。
 由香里ちゃんに水をかけた後、頑なにわけを言わない自分を、なんとなくカッコいいと思っていたかもしれない。そして、それがクラスの友達の中に身を置く由香里ちゃんを追い込んでいたのかもしれない。
 あの時、僕は「佐藤さんが醤油臭くてたまらなかったので、水をかけました」ぐらいの嘘を言えば良かったんだ。先生がみんなの前で、僕を厳しく注意したと、嘘を言ったように。でも、あれは大人の機転だ。今なら分かるが、当時十歳になったばかりの僕には無理だった。無駄に正義感の強い頭の悪い少年だったから。
 子供が背伸びをして、おとなの真似なんかしたからモヤモヤの塊ができてしまったんだ。

   そのモヤモヤの塊に鍵が刺さった。塊はひび割れを起こし中から光が漏れ出した。ひび割れは次第に広がり、眩しいほどに輝きだして真っ白になったとき、塊は砕け散った。
 目を開けたら、僕はあの教室の中にいた。そして隣にはゆかりちゃんが座っていた。僕は、「いまだっ」と思いゆかりちゃんに声をかけた。
「ごめんね」
 ゆかりちゃんは笑顔で頷いてくれた。そして僕に手を振りながら消えてしまった。
 消えたゆかりちゃんの奥に見える教室の窓には青空が広がっていた。
 その青空は、今この台所の窓から見える空と同じだった。

    僕は便箋を封筒に戻し、また勝手口から外に出た。西の空は完全に晴れていた。
 ゆかりちゃんはその後も皆と仲良く過ごせたようだ。そして、あの事件があったから今の僕がある。
    あれで良かったんだ。
    溢れ出る涙をこぼさない様に、僕は空を見上げたまま暫く動かなかった。
    早く、帰って自分で鍵を見つけるべきだった。
   そして、 会いたかった。



    家から駅まで歩いて二十分かかる。 雨も上がり、夜空が綺麗だったので少し早めに家を出た。
    ここは街の灯りが少なく、地上の星より天上の星の方がはるかに多い。
   雨上がりは空の塵も少なくとても澄んでいるので、星の輝きがより増して見える。
    余裕をもって家を出てきたのだが、空を見上げながらのんびり歩きすぎたみたいで、美織は改札を出た待合室に座っていた。
「お父さん、おそーい」
    自分の身体より大きなリュックを背負ってこちらに向かって走ってきた。
「ごめん、ごめん。ここの場所、よくわかったね」
「おばあちゃん家で聞いたの。そしたら、お父さん、今は立派な学者さんになって、ここで働いてるって。おばあちゃん、お父さんの自慢してたよ。」
「母さん元気だったか?」
「うん、お父さんから新居の連絡あった、ってすごく喜んでたよ」
    美織は背中のリュックを僕に渡し、手に持っていた紙袋の中を探り出した。
「おばあちゃんからね、お父さんの好きなお煎餅預かって来たよ。」
    美織が袋から取り出したのは、ザラメのたくさん付いたお煎餅だった。
「それからね、おばあちゃんからの伝言で、(忙しいだろうけど、お母さんに顔をみせに来い)だって」
    美織は包装されたビニールを開きその中から一枚取り出して僕に差し出した。 
「美織、本当にお父さんとここで暮らすのか?」
    僕と美織はお煎餅を食べながら歩いた。
「あのね、ここに来ればたくさんの星が見られると思ったの。小さい頃からお父さんが外国から帰ってくる度に、私にお星様の話をしてくるのがとても楽しみだったんだ。」
「ここは不便だぞ、コンビニやゲームセンターなんか近くには無いんだぞ」
「大丈夫、私、お父さんみたいになりたいの」
「そうか。じゃー、転校の手続きや色々忙しくなるな、落ち着いたら、一緒におばあちゃんの所に報告に行こうか」
「うん。おばあちゃんも、ここに連れてきちゃおうよ」
  一歩前を歩いていた美織は振り向き嬉しそうに返事をした。
     梅雨が明けたら、実家に行こう。父が亡くなってから、母に会うのは十年ぶり以上だ。そして、ゆかりちゃんの所に行って、なかなか言えなかった「ごめんなさい」を言ってこよう。  
    そう思ったら    小さかった頃の甘いお煎餅が、今日は少し塩っぱみをました。四十五歳になった僕は、やっと大人の味が分かるようになった。

    満天の星空が僕と美織りに降り注いでいる。
    三十五年ぶりの快晴だ。
    そして、
やっと三十五光年の光が見えた。