新宿駅南口とバスタ新宿の間を下って行きます。
文化学院の前辺りに、勿来橋跡がありました。
文化学院の前辺りに、勿来橋跡がありました。
由来は福島三春藩主であった秋田安房守の下屋敷を置いた事による。と、書かれています。
なこそばしと説明書きがあるので解りましたが、ルビがないと読めませんでしたσ(^_^;)
江戸時代の旧地図を見れば解るのでしょうが、川とかが埋められたり道路の下を流れている現代では解らないです。
この様に碑を建てるとか説明板があると分かり易いし、興味がない人でも興味が持てるかな?と、思いました。
幡ヶ谷は京王線の駅の名前でもありますが、甲州街道を笹塚方向に向かい山手通りを越えて少し行くと渋谷区幡ヶ谷になります。
駄洒落みたいですが、こんな感じで地名の由来になった話は多いですね。
高井戸宿に向かって歩いているとビルの中にありました。
知らない人はこんな場所に地蔵様があるとは思わないでしょう。
此方も人間様の御都合で、此方に追いやられたそうですが…
多くの方が浄財として今のお堂が出来た様です。
昔の方は本当に手厚く地域の地蔵尊とか祠等を大切にされていたと思います。
まさかの道供養碑に驚きました( ̄O ̄;)
此方は笹塚の地名の由来となった笹塚一里塚だと思われるお話です。
場所が特定されない一里塚は、特に都心部では少なくはありません。
維新後の文明開化で線路を敷いたり、道路の拡張に記録が追い付かなかったのでしょうか?
地元の方かどうかは判らないですが、ちゃんと手を合わせている姿に何故か頭が下がる気がしました。
庚申塔の周囲も大変綺麗にされていて江戸の昔より現代まで愛されているのが良く解りました。
説明板にも書かれていますが、あまりに広くて想像がつきませんでした。
大切な塩硝蔵地跡にしては幕府の守備する人数は少な過ぎる気がします。
此処を取られて、官軍に使われるとは…
未だに疑問なのですが、幕府軍は何故にあんなにも脆く破れたのでしょう。
まぁ、将軍が大阪から船で逃げ出すのですから当然なのですが…