甲武鉄道
1888(明治21年)創設
お茶の水から新宿を経て八王子まで開業されていたそうです。(21駅で27.8哩 1哩は約1609.34m)
1906(明治39年)国有鉄道の中央本線の一部となる。

甲武鉄道と言えば先日行った中山道の軽井沢宿でも雨宮敬次郎絡みで出て来た路線なので覚えています。
此方でこんな形での再会とは思いもよらず、思い掛けない再会に1人ほくそ笑んでいたのではないかと思います。
本日楽しみにしていた四谷三丁目の交差点角にある消防博物館です。
江戸時代の町火消に関しての展示を見たかったのですが残念ながら本日は休館日でした。
怪しげな男が写っていますが気にしないで下さい(≧∀≦)
消防博物館で四谷三丁目の交差点を渡り大木戸に向おうと内藤新宿へ足を向けた時に「お岩水掛観音」がありました。

実は、消防博物館へ向かう手前にお岩稲荷神社があった様な記憶が残っていたので街道から中に入って探索していました。
が、見つからないので諦めました。

此方の水掛観音を見て気が付いたのですが…
勘違いしていました。

番町皿屋敷のお菊さんと、四谷怪談のお岩さんでは全く話が違って来ますよね(−_−;)
メモリー機能はかなりの劣化確認出来ました。

番町なら戻るのは嫌だけど、現在地は四谷なのでグーグルで再検索します。
此処から200mくらい戻ります。
先程探索した場所から50mないくらいの場所でした
(T ^ T)

田宮稲荷神社跡
元々の稲荷社は明治12年(1879)火事で焼失
その後、歌舞伎役者市川左団次の勧めで中央区新川に移転
それとは別に昭和27年(1952)旧地である此方にも再建

鶴屋南北の戯曲「東海道四谷怪談」でより多くの信仰を集めるようになったそうです。 
が、実在の婿養子の田宮伊右衛門とお岩さんは夫婦円満だったようです。
田宮御夫妻が、この戯曲を見たらどんなコメントを出されたでしょうか(笑)

四谷なのに何故東海道なのか(苦笑)


田宮稲荷神社跡の斜め向かいにあります。
長照山日蓮宗陽運寺が正式名称なのかな…
山門の扁額は於岩霊堂…よく解りませんが、おそらく神仏習合なのだと思います。
そして、この場を後にしました。

長善寺(笹寺)
笹寺の由来は二代将軍徳川秀忠が鷹狩りの途中で此処に立ち寄り境内に笹が繁っているのを見て付けたものというのと、(寺伝だと)三代将軍徳川家光が江戸巡行の際に付けたものがあるそうだが、何方も根拠がないそうです。
新宿は、品川、板橋、千住と共に四宿と呼ばれていて当時より賑わっていたそうです。
元々は日本橋から次の高井戸宿までの距離が4里近くあり、当時の徒歩を主な交通手段では遠くて不便であった為に元禄10年(1697)幕府に対して浅草阿部川町の名主高松喜兵衛ら5人の浅草商人が新しい宿場の開設を願い出た。
宿場の土地は、信州高遠藩内藤家中屋敷の一部と旗本の屋敷などがあったが幕府に返上させて宿場用地とした。
享保3年(1718)八代将軍徳川吉宗の享保の改革により宿場としてよりも歓楽街として賑わっていた宿場は廃止された。
今の新宿と変わらないですね(^◇^;)
開設から僅か20年だった。
明和9年(1772)に50数年ぶりに再開され明和の立ち返り駅と呼ばれたそうです。

甲州街道を通って江戸へ出入りする通行人などを取り締まる関所
承応2年(1653)四谷水番所が設けられて江戸市中へ配水していたそうです。
隣には東京都水道局新宿営業所があり、江戸時代から続いている水問屋の様な錯覚をしてしまった(^ ^)
過去に2度行った事がある新宿御苑。
流石に今回は炎天下の中で、先を急ぐのでスルーしました。
太宗寺に参拝した後に追分にある新宿元標へ到着しました。
此方の追分は青梅街道と甲州街道との追分です。

本日は此処までで昼食に新宿駅西口にあるラーメン屋に行くつもりでしたが、現在の時刻は10:50まだ早いので先に進む事にします。