またまた、ネットから南派拳術からテコンドーまでの流れをまとめてみました。

首里士族の佐久川寛賀(あだ名は唐手佐久川)は、幼少の頃より学んだ沖縄固有の武術「(ティー)」に、北京で学んだ中国武術を融合させて独自の武術を創造したと考えられています

この「」と中国武術を融合した武術が空手の源流である唐手(トゥーディー)ではないかと考えられています。
しかし、がどのような武術か分からないため、、検証できません。

あだ名唐手佐久川の唐手を直訳すると「唐=中国、手=武術」を表します。
つまり中国武術の使い手の佐久川と言う意味です。

唐手を佐久川寛賀に学んだ松村宗棍は、示現流の免許皆伝も得た武人です。
琉球王府に仕えた首里士族のなかでも、武士松村と讃えられています

今日の首里手系統の空手流派のほとんどは松村の流れを汲んでいます。

安里安恒は、18歳の頃に首里手の大家・松村宗棍に入門したと言われています。
同じ松村門下には糸洲安恒がいました。

糸洲は頑強な体格をもち、力強い突き手として知られていたのに対し、安里は身が軽く、繰り出す技が素早かったといわれています。
「人の手足は剣と思え」という安里の言葉も伝えられています。

ちなみに、松村は糸洲のことを「糸洲の技はのろくて、実戦に間に合いますまい」と評し、嫌っていたそうです
耐えかねた糸洲は松村のもとを退き、自分より一歳年上の那覇手(東恩納寛量以前の那覇手)の長浜筑登之親雲上に師事するようになりました

糸洲は、首里手だけでなく泊手、那覇手なども幅広く修行していました。
糸洲の流儀は「那覇六分首里四分」という意見もあります。

なので、2人の稽古法には違いがあります。

松村宗棍は実戦(組手)と柔軟性を重視した稽古法だったとされています。
弟子の糸洲安恒は型稽古に主軸をおき、また那覇手の影響を受けて「身体を堅める稽古法」を重視したものでした。

冨名腰義珍は、16歳の時に那覇手の大家・湖城大禎に唐手を師事しますが、那覇手が合わず湖城の教授を三ヶ月でやめています
その後、首里手の大家・安里安恒に本格的に師事しました。

ちなみに安里の弟子は、冨名腰義珍一人だけでした。

冨名腰は、安里とは同じ松村宗棍門下で友人でもあった糸洲にも影響を受けています。
糸洲門下の摩文仁賢和(糸東流の開祖)からピンアン(糸洲の創作型)を学んでおり、後には「ピンアン先生」とあだ名されるほど、冨名腰得意の型の一つになりました。

糸洲の影響か、冨名腰も型稽古を重視し、組手はあまり知らなかったようです。

大正11年(1922年)6月に本土の講道館に招かれた冨名腰は、嘉納治五郎と200人の柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行っています。

しかし、講道館での演武は型だけの単独演武で、乱取り稽古を重視する柔道家には、あまり強い印象を与えることができませんでした

唐手の稽古が型のみという問題は、その後も繰り返し柔道家の側から「乱取りに相当する稽古がないと本当の実力を計る物差しがない」と問題提起されています。

しかし、型を重視する冨名腰は、弟子からの自由組手を唐手に導入する提案に激しく反対しています

ちなみに、大正11年(1922年)11月、52歳の本部朝基がロシアのヘビー級ボクサーを1撃でKOした試合模様が、国民的雑誌「キング」に掲載されています
このことで、本部朝基の武名と唐手術が一躍全国に知られることになりました
その後も、本部は他流試合などでも実力を本土で証明しています

冨名腰の系統は一般に松濤館流と呼ばれ、全世界に広がり世界で一番多く人々に学ばれているそうです

そして、松涛館流を学んだ崔泓熙はテコンドーを創始しました。