今日の心の声
「せっかくの人生、好きなことやりなよ。」
普段、堅実で家計のやりくりについて口うるさい妻が
珍しく、できるかぎりの大らかな声でそう言った。
それは、いつもサラリーマンである夫がラーメン店の前を通るたび
不意に口をつく、
「こんな店持てたらいいなー」というつぶやきに対する答えだった。
夫は中堅のメーカーの、主に製品の管理を担当している。
給料はそれほど多くは無いが、それなりの生活を保障されている。
趣味はラーメンの食べ歩き。「1000軒は食べ歩いた」というのが自慢で、
舌にはそれなりに自信があった。
テレビでは、「行列のできるラーメン店」の舞台裏が紹介していた。
日曜日の夕方のリビング。
2歳になる息子が、絵本に夢中になって、しきりに指をさして声をあげていた。
「ラーメン屋ってったって、大変なんだなー、ほとんど寝れないし。
睡眠大好きな、俺には無理だなぁ」と言って笑っている夫。
妻にはそれが、夢をふっ切れない自分に言い聞かせているように聞こえた。
自分でも、思いもよらない言葉が口からこぼれ落ちそうになって、
むしろ思い切って、力を込めて言い放った。
「せっかくの人生、好きなことやりなよ。私もお店の女将さんかー、大変になるなぁ」
夫は思いがけない妻の言葉に驚いて、息子の顔を見た。
* * * * * *
会社に辞表を出して10カ月。
台所で、寸胴鍋とにらめっこをする日々。
半年前にマンションから、2階建てのアパートに越してきた。
家族3人では狭いが、台所だけは普通のアパートのそれよりずいぶん広かった。
それと、このあたりの相場より格安の家賃が決め手で決めた新居。
1ヵ月前、やっと自分の店の味の片鱗をみつけて、
正確に言うと、みつけた気がして、それから夫は寝る時以外はずっと鍋の前にいる。
この間、収入はゼロ。
妻がパートに行くことも考えたが、2歳の息子の面倒をみなければならず、
金銭的、距離的に保育園にやる余裕もなかった。
そんなある日の夜中、
夫が急に大きな声をあげた。
「これ、これ、これ味見してみて!」
先に床についていた妻は、たたき起こされて、不意にスプーンを口に突っ込まれた。
明らかに今までのそれとは違っていた。
深く、濃く、しかし優しい味が、乾いた口の中を潤した。
妻の目から涙が流れた。
喜びと、感動と、なによりも安堵の涙だった。
* * * * * *
それからさらに半年。
無事に開店にこぎつけて、4カ月。
あの夜に見つけた味を、さらに進化させたスープは評判を呼び、
今では、雑誌やインターネットでたびたび取り上げられるようになり、
客も途絶えることがない。
朝は4時に起きて、スープの仕込み、仕入れ、休憩する暇もない。
でも、サラリーマン時代よりも、充実した日々。
夫は言った。「ありがとう。」
妻はそれに答えた「こちらこそ。」
そんな夫婦のやりとりを遮るように、店の暖簾が翻った。
* * * * * *
ラーメンを食べる俺に、
「スープ全部飲むから太るんだよ」と、サラッと言い放つが、
このスープが、残せるかーーーーーーーーーーーー!
以上。