1.はじめに

 この前の回に戦国末期の関ヶ原の戦いを取り上げましたので、今度は戦国の幕開けたるこの応仁の乱を取り上げようと思います。

 応仁の乱というのは名前だけで言えば学校で習ったことがある、というように有名だと思います。
 しかしその実情はどんなものなのかというと結構知らない人も多いと思います。

 というのもこの戦い、すごいグダグタなんですよ(笑)
 戦いはなんと10年以上も継続しており、その勢力も入れ替わり立ち替わりの様相を呈していますので、実際問題わかりづらい( ̄^ ̄)

 しかし意外と調べると後世にも影響していることがあったりするので、深く調べると結構面白いですよ!


2.室町幕府とは

 応仁の乱に触れる時、一番重要なのは室町幕府についての知識だと思います。
 室町時代というと教科書でもあっという間に終わったりするので、あまり人気のない時代です。

 しかし最盛期の室町幕府の権力は、江戸幕府のそれを大きく上回っていると個人的には思います。

 なぜなら三代足利義満の時代には天皇を差し置いて義満自身が日本国王と称されるように、莫大な力を持っていたことが見えるからです。

 さらには世界的にも有名な日本の世界遺産、金閣寺が作られたのもこの頃の話です。

 この通り室町幕府には強力な力がありました。

 しかし盛者必衰が歴史にはつきもの。最盛期を迎えたのちに室町幕府の権威は徐々に衰えていきます。
 その弱体化が決定的となったのが6代将軍、足利義教の暗殺と言えるでしょう。

 この足利義教という人物は義満の五男で本来は将軍の座は遠いとされてきた人物でした。なにせもう将軍にはなれないだろうと出家もしていたのですから。(僧侶としては非常に優秀で、天台開闢以来の逸材と称されたようです)
 しかし突然彼に転機が訪れます。

 5代将軍の義量には実権がなく、政治の実権は義量の父の義持が握っていたと言われています。
 もともと義量は病弱で、さらには大酒飲みということでわずか19歳にして亡くなります。
 その後もしばらくは義持が政治を運営していたのですが、そんな彼にもいよいよ最期の時が訪れます。
 
 しかし義持は自分の後継者を指名しませんでした。
 困った幕府の首脳陣は会議の結果、クジ引きで将軍を決めようという結論に。
 京都は石清水八幡宮に集まった義持の弟の四人。その中には義教の姿もありました。

 義持の死の翌日に開かれたクジの結果は、義教の将軍就任でした。
 もともと僧侶として名声を得ていた義教が将軍になるということで民衆や幕臣たちは期待を寄せます。
 僧侶として名高い義教様ならば慈悲ある良い政治を行ってくれるに違いない、と。

 しかし現実はそうなりませんでした。

 実は義教には僧侶として優秀な反面、苛烈な一面も持ち合わせていたのです。
 あるエピソードでは、侍女に対してお酌のやり方が下手くそだといって、その侍女に対して暴力を振るい、髪を切り落としてしまったという話もあるぐらいです。
 現代ならパワハラ通り越して傷害事件です(・_・;
 こういった苛烈な面を評して、万人恐怖という言葉が残っています。
 さらには織田信長に先んじて比叡山を焼き討ちしてたりします。比叡山が攻められたのは信長が初めてではないのです。

 こんな義教ですが将軍としては優秀でもあったようで、落ちぶれていた幕府を一時的とは言え立て直したり、各地の反乱分子を沈黙させたりなどという功績もあります。

 しかし義教は苛烈すぎました。ある意味彼の最期は必然だったのかもしれません。

 義教は家臣の赤松満祐の招待を受けます。名目は池で飼っている鴨の子がたくさん生まれたということと、結城合戦という関東の反乱を収めた戦の慰労というものでした。
 祝宴は盛大なもので、義教は猿楽を楽しんでいたと言われています。

 しかし凶刃はすぐそこに迫っていました・・・。

 突如として門の閉まる音が屋敷に響きました。屋敷では馬がいきなり暴れ出すということが。
 義教は「何事であるか⁉︎」と怒鳴りつけます。

 その直後、甲冑を着た武者達が祝宴に乱入。そして義教の首を一瞬にして刎ねました。

 この事件が俗に言う嘉吉の変(嘉吉の乱)という事件です。

 将軍が自分の家来に殺されるというこの事件は室町幕府の権威を著しく損ないました。
 これを機に室町幕府は転がり落ちるように弱体化していきます。研究者によっては、これが戦国時代の始まりと捉える人もいるようです。

 3.応仁の乱勃発

 かくして弱体化していく室町幕府。時代は進み、時は8代将軍足利義政の時代へと進んでいきます。

 義政は先ほどの義教の三男として生まれました。本来は将軍にはなれない立場でしたが、兄の義勝が若くして亡くなったため、彼に将軍の椅子が回ってきました。

 しかし、彼は政治に興味を失っていきます。というのも、幕府のどうしようもない現状と、各地で発生する一揆などが原因です。
 もともと芸術に精通していた文化人であったため政治には興味はなかったのかもしれません。

 やがて政治にうんざりし始めた義政は弟の義視に将軍職を譲ろうとします。義政は、妻の日野富子との間に子供がなかなか産まれませんでした。その為、なかなか将軍を引退できず仕方がないので、弟の義視に職を譲ることとしました。義視はすでに出家し、僧侶となっていましたが、兄の頼みを受けて将軍になろうとします。

 しかし運命とは妙なもので、そんな時に妻の富子は子供を、しかも男子を産みます。のちに義尚と呼ばれる少年を将軍にするべく富子は夫の義政に迫ります。

 しかし義政、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに政治への興味を失っていきます。

 この富子という女性、良くも悪くも行動力ありすぎな人です。自分の子供を将軍にするため、頼りにもならない夫を見限って、山名宗全という武将に協力を要請します。
 宗全は幕府における四職という役職に就いておりました。この役職は現代でいうところの警察兼軍人といった具合の役職です。
 先の嘉吉の乱において乱を平定するという功績を挙げ、この時点では幕府の中でも屈指の発言力を持っています。

 対する義視はそれに対抗するため細川勝元という人物に力添えを頼みます。
 勝元は管領という役職に就いている人物です。
 三管領家(細川、畠山、斯波の三つの一族。彼らが交代で管領に就任する)というのがございまして、細川家はその一角の超名門出身という事になります。
 当然権力も強大です。なにせ将軍に次ぐ幕府のナンバー2的立ち位置なのですから。

 さらにはそこに他の管領家の内部紛争も絡んできます。他にもさまざまな守護大名たちが己が思惑を張り巡らせながらこの後継者争いに参戦していきます。

 かくして京都に20万を超える軍勢が集結しました。義視派の細川陣営は東軍、義尚派の山名陣営は西軍として対峙。

 ここに空前絶後の大乱にして戦国時代の幕開けたる応仁の乱が勃発するのです。

3.応仁の乱、その結末

 ついに勃発してしまった応仁の乱。この戦いはあまりに大規模すぎました。
 次々と繰り返される戦闘により京都は荒廃していきます。著名な寺社仏閣は無残にも破壊され、さらには神社が戦の舞台になることさえありました。
 戦の激化により人々は京都から逃げていきます。それに伴い祇園祭といった祭りも当然中止されます。

 さらにひどい事に、途中で義尚が東軍サイドに、義視が西軍サイドへ、と陣営が入れ替わるという珍事も発生。もはや将軍の後継争いなどどうでもよくなってきたのです。

 この戦の途中で山名宗全、細川勝元といった中心人物は病死。もはや軍のトップが死亡し、指揮系統もよくわからない状況になっていきます。

 結局、将軍の座は義尚に決定されました。この時点でもはや戦争の理由はなくなったように思われますが、戦争とは始めるのは容易くとも、終わらせるのは至難のようで、この後もグダグダと戦争が続いていきます。

 結局、応仁の乱は11年も続き、京都は焼け野原と化し、何も残らない虚しい結果で終わりました。よく年号で人世虚しい(1467)で覚えられますが、まさしくその通りの結果となりました。

 こんな生産性のない戦争を続けていたため、各地の守護大名は軒並み弱体化していきました。その大元締めの室町幕府は言うまでもありません。

 なおこの時弱体化した守護大名の抜け穴を埋めていったのが地元の有力者である国人です。
 この国人たちが後の戦国大名となっていくのです。

 4.おわりに

 応仁の乱は日本における戦の中でも屈指の大規模な戦争です。
 その戦によって京都は深刻なダメージを負う事になってしまいました。
 しかし京都の人々はたくましかった。
 彼らは戦が終わると少しずつ京都に帰り始めてきました。そういった人たちが京都を自分の力で再興していこうとしていきます。特に裕福な富裕層が中心となり町は徐々に復活していきます。
 これこそ戦国時代において強い自治力を持つ京都の始まりとも言えます。

 そして息子に将軍職を譲り、隠居した足利義政ですが、将軍としては結果を残せませんでしたが、芸術面において彼が残した功績は極めて重要と言えるでしょう。
 彼は自分の趣味のため、京都の東に山荘を設けました。その山荘は東に位置していたことから東山山荘と呼ばれました。
 彼の趣味と芸術的才能はこの地で開花していきます。

 その山荘には書院がありました。畳を敷き詰めた部屋と、襖が部屋を区切っていくというこの建築様式、書院造はこれより後の日本建築に多大な影響を与えます。

 さらに彼はその山荘を気に入り、次々と大規模な 建築物を作っていきます。そして義政の死後、それらは義政を弔うため寺として改められていきました。

 その寺、慈照寺は、その見事さから建築からおよそ500年後世界遺産に登録されました。

 そう、これこそ日本が世界に誇る銀閣です。

 義政はこれより後の日本文化にとてつもない影響を残しています。
 将軍としては無能の謗りは避けられないかもしれませんが、文化人としては超一流の人物だったのです。

 なお余談ですが、京都に西陣織という高級な織物がございます。この織物は西陣という場所で作られたため西陣織と呼ばれています。

 この西陣という名前はかつて西軍の本拠地、山名宗全の陣があったためそう呼ばれているのです。

 さらに西陣織は応仁の乱で京都から逃げた職人達が、戦争が終結して京都に戻ってきてはじめた工芸品とも言われております。