前提や定義が一致していない状態での議論はメビウスの輪のように終わりが見えない。
殊に世代や生きてきた環境が少し違うだけで、お互いが心から納得できる結論に至る蓋然性は低い。
その差異を埋めるものとして哲学のようなものがあったのに、結果に過剰な期待を持つ現在では、そのような過程の評価はないがしろにされている。
定期的に生きる意味や、なにが正しいのか、などが問われるが、その問いに対しての魅力はとっくに消えていて、求めているものとしてその問いに対しての真摯さが先行する。
今ではどんな言葉もどこか嘘のようで、つかみどころのない正義のようで、所詮自分が満足するためだけに発せられた言葉のように感じる。