永遠の姉妹 第41話『せめてもの接近』
「ありがとうございます」
開店前のスナックの店内。知永子は、還暦をとうに過ぎていそうに見える初老のママに向かって、頭を下げた。
「まあ、うちみたいな店には、経歴なんて別に関係ないからね」
ママは、知永子と履歴書を交互に見遣り、くくっと笑う。
「それにしても…こんなこと書いてあるんじゃ、どこも雇ってくれないだろう。あんたも…馬鹿な女だね」
知永子が持参した履歴書には、嘘偽りのない知永子の経歴が記されていた。もちろん、服役についてもである。
「はい。今までも…門前払いがほとんどでした。でも、自分の経歴を偽ることがどうしても出来なくて…」
知永子は、苦笑いで返した。
「本当に馬鹿だねぇ。そんなこと、いくらでも誤魔化せるだろうに。まあ、そこが気に入ったんだけどね」
「はい。よろしくお願いします」
知永子は、再び頭を下げる。ママは、笑いながら深紅のマニキュアを塗った爪先をひらひらと振った。
「止めとくれよ。そんな大した店じゃないんだから。まあ…気楽な気持ちでやっておくれよ。あんたみたいな若くて綺麗な女の子がいてくれるだけで…掃き溜めに鶴で、店が華やぐんだからさ」
言いながら、知永子の肩を叩く。女の子、と言う響きに気恥ずかしさを感じつつ、知永子は笑った。
「そう言や、あんた住むところはどうするんだい?いつまでも、ホテル住まいじゃ金が続かないだろう。常連客に不動産屋がいるんだ。良かったら、口聞いてやるよ」
「本当ですか!!助かります」
「何か条件はあるかい?あったら、伝えとくよ」
「別に、どんなに古くても狭くても…雨風さえ凌げれば構いません。ただ…場所だけは、四谷近辺がいいんです」
知永子は、思わず立ち上がる。
「…何だい。何か、訳ありのようだね」
「えぇ…まあ」
「理由なんて、野暮なことは聞かないよ。あたしだって女だ。女には色々あるもんね」
「…ありがとうございます」
「…とにかく、これからよろしく頼むよ。あたしはフキ。フキママって呼んでくれればいいよ」
フキは、そう言って微笑んだ。きゅっと寄った目尻の皺に、彼女の人生の重みが見える。
「はい、フキママ」
知永子は、笑い返した。フキの暖かい対応に、心が和む。
「今日も…ママは帰りが遅いの?」
愛実は、澄江に向かって尋ねた。
「そうよ。だから早くご飯を食べて、お休みしましょうね」
澄江は、素っ気なく返す。ふいに、愛実がフォークを放り投げた。
「何してるの。お行儀が悪いでしょ」
「つまんない!おばあちゃんとふたりきりでご飯食べてても、全然楽しくないんだもん!!」
女児特有の甲高い声が、澄江の神経を刺激する。
「仕方がないじゃない!ママは、大事なお仕事を頑張ってるのよ。ママがお仕事しなかったら…愛実もおばあちゃんも、路頭に迷うのよ。少しは我慢なさい!!」
澄江は、思わず声を荒げた。
「でも…愛実、寂しい。お金なんてちょっとだけでいいから、ママともっと一緒に遊びたい」
愛実は必死に涙を堪え、澄江に言い返した。その表情が、幼い頃の知永子のそれと重なる。
「いい加減になさい!そんな我が儘言うんだったら、ご飯なんて食べなくてもいいのよ。せっかく…あんたの為に、精根込めて作ってやったって言うのに!!」
澄江は、ヒステリックに叫んだ。テーブルを掻き乱す。料理が乗ったままの皿が床で砕け散り、テーブルの周りは酷い惨状になった。
「おばあちゃんなんて、嫌い…」
愛実は澄江を侮蔑するように呟き、寝室へと走り去って行く。
「何で…何で、あたしがこんな惨めな思いをしなきゃいけないのよ」
澄江は嘆きながら、自らが割った皿を拾い集めた。鋭利に尖ったグラスの破片が、澄江の指を切る。
「痛っ…」
澄江は、そう言って指から出る血を舐めた。ふいに、何もかもが嫌になる。
気づけば、澄江は新宿の繁華街の中にいた。あの後、居ても立ってもいられずに家を飛び出して、こんなところにまでふらふらと足を運んでしまったらしい。
もちろん、行く宛などなかった。人生のほとんどを、倉内の家で過ごして来た澄江にとっては、繁華街など未知の世界にも等しい。
これから、どうしようか。澄江は、途端途方に暮れる。かと言って、このままあの家に帰るのも嫌だった。
その時、澄江の視界に、煌びやかなネオンで飾られた一軒の店が飛び込んで来る。看板には、『キングダム』と書かれていた。
外灯に惹き寄せられる蛾のように、澄江はその店へと吸い込まれて行く。
「何なの、これ!?」
深夜遅くに帰宅した知香子は、リビングの惨状に思わず叫んだ。その後すぐに、愛実を起こしては行けないと思い、口元を押さえる。
「…ママ。いないの?」
言いながら澄江を探したが、家のどこにも澄江の姿は見あたらなかった。もしやと思い、愛実の寝室を覗いてみたが、愛実がひとり、ベッドで寝ているだけである。
「ママったら…愛実ひとりを残して、一体どこに行ったって言うのよ」
言いながら、愛実の髪を撫でた。
ほんのつい最近までは、ひとりで眠ることさえ出来ない甘えん坊だったはずなのに。知香子は、愛実の成長が嬉しくもあり、同時に寂しくもあった。思わず、愛実を抱き締める。
「ママ…苦しいよ」
愛実が、目を覚ました。
「あら、ごめんね。起こしちゃった?でも…よくママだって解ったわね」
知香子は、愛実を抱き締めながら尋ねる。
「解るよ。だって…ママの匂いがするんだもん。愛実、ママの匂い大好き」
「愛実…。ママも、愛実のことが大好きよ。愛実は…ママのたったひとつの宝物なんだもの…」
「ママ…何で泣いてるの?誰かに、苛められたの?」
知香子の涙が、愛実の頬を濡らしていた。
「違うわ。あんまりにも、愛実が可愛くて…それが嬉しくて涙が出て来たのよ」
知香子は泣き笑いで答えたが、愛実は首を傾げる。
「ふ~ん…。嬉しくても涙って出るの?」
「そうよ。大人はね、嬉しくても哀しくても…涙が出るのよ」
「じゃあ、大人はけっこう泣き虫なんだね」
愛実は、笑った。
「そうね…。ねえ、愛実…」
知香子は、愛実に問いかける。
「なぁに?」
「もうちょっとだけ…こうしててもいい?」
「うん…いいよ」
知香子が、愛実のやわらかな頬に口づけた。愛実は、くすぐったそうに体を捩らせる。
知香子は、この上もない幸せの中にいた。
「本当に、こんなところでいいのかい?」
引っ越しの荷物を片付けていた知永子の背中に、フキが問いかける。
そこは、知永子の年齢を遥かに超えていそうな、木造アパートだった。辛うじて住居は二階にあるものの、広さは四畳半に申し訳程度の小さな洗い場がついているだけで、トイレは共同、風呂はない。
ひとり暮らしの女性が住むには、あまりにも相応しくない物件だ。
「あの野郎、足元見やがったんだ。いくら何でも…こんなボロアパート紹介するなんて、とんでもありゃしないよ」
フキは、物件を紹介した不動産屋を散々にこき下ろす。
「ここで、いいんです。いや…ここがいいんです」
知永子は、そう言って笑った。嘘ではない。知永子には、この部屋を選んだ確固たる理由があった。
「そうかい?あんたが、そう言うなら別にいいんだけどさぁ。何か…あたしまで馬鹿にされちまってるようで、向かっ腹が立っちまうよ」
フキは、いつもの口調で捲くし立てる。言葉は汚いが、心根は優しい女性なのだ。
ある程度整理が着いたところで、知永子は窓を開く。長年開けられることがなかったのか、ギシギシと嫌な音がした。
「ここじゃなきゃ、いけないのよ…」
初夏の風を頬に受けながら、知永子は呟く。
知永子の視線の先には、倉内の豪邸が立っていた。
<たとえ顔を合わせることは許されないのだとしても、せめて少しでも愛実の傍にいたい。それは、せめてもの知永子の母心だった。
しかし、知永子のその一途な想いが、愛実を苦しめる原因になろうとは…。この時の知永子は、知る由もなかった。>
つづく
開店前のスナックの店内。知永子は、還暦をとうに過ぎていそうに見える初老のママに向かって、頭を下げた。
「まあ、うちみたいな店には、経歴なんて別に関係ないからね」
ママは、知永子と履歴書を交互に見遣り、くくっと笑う。
「それにしても…こんなこと書いてあるんじゃ、どこも雇ってくれないだろう。あんたも…馬鹿な女だね」
知永子が持参した履歴書には、嘘偽りのない知永子の経歴が記されていた。もちろん、服役についてもである。
「はい。今までも…門前払いがほとんどでした。でも、自分の経歴を偽ることがどうしても出来なくて…」
知永子は、苦笑いで返した。
「本当に馬鹿だねぇ。そんなこと、いくらでも誤魔化せるだろうに。まあ、そこが気に入ったんだけどね」
「はい。よろしくお願いします」
知永子は、再び頭を下げる。ママは、笑いながら深紅のマニキュアを塗った爪先をひらひらと振った。
「止めとくれよ。そんな大した店じゃないんだから。まあ…気楽な気持ちでやっておくれよ。あんたみたいな若くて綺麗な女の子がいてくれるだけで…掃き溜めに鶴で、店が華やぐんだからさ」
言いながら、知永子の肩を叩く。女の子、と言う響きに気恥ずかしさを感じつつ、知永子は笑った。
「そう言や、あんた住むところはどうするんだい?いつまでも、ホテル住まいじゃ金が続かないだろう。常連客に不動産屋がいるんだ。良かったら、口聞いてやるよ」
「本当ですか!!助かります」
「何か条件はあるかい?あったら、伝えとくよ」
「別に、どんなに古くても狭くても…雨風さえ凌げれば構いません。ただ…場所だけは、四谷近辺がいいんです」
知永子は、思わず立ち上がる。
「…何だい。何か、訳ありのようだね」
「えぇ…まあ」
「理由なんて、野暮なことは聞かないよ。あたしだって女だ。女には色々あるもんね」
「…ありがとうございます」
「…とにかく、これからよろしく頼むよ。あたしはフキ。フキママって呼んでくれればいいよ」
フキは、そう言って微笑んだ。きゅっと寄った目尻の皺に、彼女の人生の重みが見える。
「はい、フキママ」
知永子は、笑い返した。フキの暖かい対応に、心が和む。
「今日も…ママは帰りが遅いの?」
愛実は、澄江に向かって尋ねた。
「そうよ。だから早くご飯を食べて、お休みしましょうね」
澄江は、素っ気なく返す。ふいに、愛実がフォークを放り投げた。
「何してるの。お行儀が悪いでしょ」
「つまんない!おばあちゃんとふたりきりでご飯食べてても、全然楽しくないんだもん!!」
女児特有の甲高い声が、澄江の神経を刺激する。
「仕方がないじゃない!ママは、大事なお仕事を頑張ってるのよ。ママがお仕事しなかったら…愛実もおばあちゃんも、路頭に迷うのよ。少しは我慢なさい!!」
澄江は、思わず声を荒げた。
「でも…愛実、寂しい。お金なんてちょっとだけでいいから、ママともっと一緒に遊びたい」
愛実は必死に涙を堪え、澄江に言い返した。その表情が、幼い頃の知永子のそれと重なる。
「いい加減になさい!そんな我が儘言うんだったら、ご飯なんて食べなくてもいいのよ。せっかく…あんたの為に、精根込めて作ってやったって言うのに!!」
澄江は、ヒステリックに叫んだ。テーブルを掻き乱す。料理が乗ったままの皿が床で砕け散り、テーブルの周りは酷い惨状になった。
「おばあちゃんなんて、嫌い…」
愛実は澄江を侮蔑するように呟き、寝室へと走り去って行く。
「何で…何で、あたしがこんな惨めな思いをしなきゃいけないのよ」
澄江は嘆きながら、自らが割った皿を拾い集めた。鋭利に尖ったグラスの破片が、澄江の指を切る。
「痛っ…」
澄江は、そう言って指から出る血を舐めた。ふいに、何もかもが嫌になる。
気づけば、澄江は新宿の繁華街の中にいた。あの後、居ても立ってもいられずに家を飛び出して、こんなところにまでふらふらと足を運んでしまったらしい。
もちろん、行く宛などなかった。人生のほとんどを、倉内の家で過ごして来た澄江にとっては、繁華街など未知の世界にも等しい。
これから、どうしようか。澄江は、途端途方に暮れる。かと言って、このままあの家に帰るのも嫌だった。
その時、澄江の視界に、煌びやかなネオンで飾られた一軒の店が飛び込んで来る。看板には、『キングダム』と書かれていた。
外灯に惹き寄せられる蛾のように、澄江はその店へと吸い込まれて行く。
「何なの、これ!?」
深夜遅くに帰宅した知香子は、リビングの惨状に思わず叫んだ。その後すぐに、愛実を起こしては行けないと思い、口元を押さえる。
「…ママ。いないの?」
言いながら澄江を探したが、家のどこにも澄江の姿は見あたらなかった。もしやと思い、愛実の寝室を覗いてみたが、愛実がひとり、ベッドで寝ているだけである。
「ママったら…愛実ひとりを残して、一体どこに行ったって言うのよ」
言いながら、愛実の髪を撫でた。
ほんのつい最近までは、ひとりで眠ることさえ出来ない甘えん坊だったはずなのに。知香子は、愛実の成長が嬉しくもあり、同時に寂しくもあった。思わず、愛実を抱き締める。
「ママ…苦しいよ」
愛実が、目を覚ました。
「あら、ごめんね。起こしちゃった?でも…よくママだって解ったわね」
知香子は、愛実を抱き締めながら尋ねる。
「解るよ。だって…ママの匂いがするんだもん。愛実、ママの匂い大好き」
「愛実…。ママも、愛実のことが大好きよ。愛実は…ママのたったひとつの宝物なんだもの…」
「ママ…何で泣いてるの?誰かに、苛められたの?」
知香子の涙が、愛実の頬を濡らしていた。
「違うわ。あんまりにも、愛実が可愛くて…それが嬉しくて涙が出て来たのよ」
知香子は泣き笑いで答えたが、愛実は首を傾げる。
「ふ~ん…。嬉しくても涙って出るの?」
「そうよ。大人はね、嬉しくても哀しくても…涙が出るのよ」
「じゃあ、大人はけっこう泣き虫なんだね」
愛実は、笑った。
「そうね…。ねえ、愛実…」
知香子は、愛実に問いかける。
「なぁに?」
「もうちょっとだけ…こうしててもいい?」
「うん…いいよ」
知香子が、愛実のやわらかな頬に口づけた。愛実は、くすぐったそうに体を捩らせる。
知香子は、この上もない幸せの中にいた。
「本当に、こんなところでいいのかい?」
引っ越しの荷物を片付けていた知永子の背中に、フキが問いかける。
そこは、知永子の年齢を遥かに超えていそうな、木造アパートだった。辛うじて住居は二階にあるものの、広さは四畳半に申し訳程度の小さな洗い場がついているだけで、トイレは共同、風呂はない。
ひとり暮らしの女性が住むには、あまりにも相応しくない物件だ。
「あの野郎、足元見やがったんだ。いくら何でも…こんなボロアパート紹介するなんて、とんでもありゃしないよ」
フキは、物件を紹介した不動産屋を散々にこき下ろす。
「ここで、いいんです。いや…ここがいいんです」
知永子は、そう言って笑った。嘘ではない。知永子には、この部屋を選んだ確固たる理由があった。
「そうかい?あんたが、そう言うなら別にいいんだけどさぁ。何か…あたしまで馬鹿にされちまってるようで、向かっ腹が立っちまうよ」
フキは、いつもの口調で捲くし立てる。言葉は汚いが、心根は優しい女性なのだ。
ある程度整理が着いたところで、知永子は窓を開く。長年開けられることがなかったのか、ギシギシと嫌な音がした。
「ここじゃなきゃ、いけないのよ…」
初夏の風を頬に受けながら、知永子は呟く。
知永子の視線の先には、倉内の豪邸が立っていた。
<たとえ顔を合わせることは許されないのだとしても、せめて少しでも愛実の傍にいたい。それは、せめてもの知永子の母心だった。
しかし、知永子のその一途な想いが、愛実を苦しめる原因になろうとは…。この時の知永子は、知る由もなかった。>
つづく