氣康の学び
福島県在住の「真由美さん」
介護職に専念する傍ら、自分磨きにも余念がない。
一つ一つ丁寧に行動していく、やればやるほど身になり、成長する方
氣康の学びは、治療だけでなく、私達の身近な全ての出来事に関係し意味を成して来ます。
その学びの中でも重点置いている「気づき」
意識の視点というものに、学びたての初級では特に自己のコントロールを学びます。
私達は見えている物を認識し、理解する。
しかし、見えている物の真実は全てではなく、見るという行為を、「視る」にシフトしていく事にある。
その意味とは、ただ使う漢字が異なると言うだけでなく、
見る、観る、視るでは、体の使い方、氣の使い方が全く異なるのである。
見るとは、「点」である。
そこの一点に集中し、そこだけを見る
意識を集中している事には優れているが、視野が狭く、周りが見えていない事で、全体像を把握できず、本当に見ている物の全ての姿は理解していない。
つまり、そうだと思っていたことが、じつは違ったという事が起こりやすくなってしまうのである。
そして、観るとは、「線であり、円」である。
見た物をより広げ、全体を見ようとし、見えてくるものの全体の姿を把握できる。
見るから観るという行為は、その一か所ではない為に、物の動き、物の色、物の形、物の変化を見る事ができる。
その為に、見るとは異なり、その物の全体を観る事で、思っていた事との違い、思っていたという先入観を変えることができ、あらたな変革の知恵を得る事ができるのである。
そして、視るとは、「中心」である。
見るは「点」、観るとは「線であり円」、
視るとは、点から線になり、それを丸く円周にした先の「中心」位置を意識する事にある。
視るとは、見る事と観る事の先に在る。
見る事しか知らない物は、観る事はできず、
観る事に意識し過ぎると、その先の視るものは見えて来ない。
視るとは目で見る物の先に在る。
つまり、感覚である。
そこには、ただ、見るだけでなく、
視る事で感じる何かがある。
自分の追い求めている何かがある。
本来見えている物の世界は、自分の都合の中に在る。
自分の世界、自分の事、自分の都合の中で、ものの価値を決めている。
その物の価値は、自分の都合や価値観を捨て、その真実に向き合わなければ見えて来るものも見えてこない。
本当にその物を視るのは、正面より、時に横から、時に、裏から眺めてみるのも良い。
そしてその時には、焦り、不安、苛立ち、他者の真実をすべて捨て、
見えて来る世界にただ集中するのである。
そうすれば、見える物に、ただ不満や焦りを感じず、
その先の素晴らしさにきっと出会える。
その学びも、氣康の一つである。