”見える物が全てじゃない! | 『慢性症状』専門治療室&カウンセリングルーム ちば幕張イソカワ総合治療院

『慢性症状』専門治療室&カウンセリングルーム ちば幕張イソカワ総合治療院

『慢性症状、スポーツ疲労、自律神経症状、氣力回復』専門治療室
⭐営業時間9:00~18:00
⭐完全予約制
⭐一日限定9名~10名
【御予約043-271-1517】

とても熱血漢で頼りになる先生の施術です。

無痛で副作用なしの自然「手技」療法です。

氣康の学び

 

福島県在住の「真由美さん」

介護職に専念する傍ら、自分磨きにも余念がない。

 

一つ一つ丁寧に行動していく、やればやるほど身になり、成長する方

 

氣康の学びは、治療だけでなく、私達の身近な全ての出来事に関係し意味を成して来ます。

 

その学びの中でも重点置いている「気づき」

意識の視点というものに、学びたての初級では特に自己のコントロールを学びます。

 

私達は見えている物を認識し、理解する。

しかし、見えている物の真実は全てではなく、見るという行為を、「視る」にシフトしていく事にある。

 

その意味とは、ただ使う漢字が異なると言うだけでなく、

見る、観る、視るでは、体の使い方、氣の使い方が全く異なるのである。

 

見るとは、「点」である。

 

そこの一点に集中し、そこだけを見る

意識を集中している事には優れているが、視野が狭く、周りが見えていない事で、全体像を把握できず、本当に見ている物の全ての姿は理解していない。

 

つまり、そうだと思っていたことが、じつは違ったという事が起こりやすくなってしまうのである。

 

そして、観るとは、「線であり、円」である。

見た物をより広げ、全体を見ようとし、見えてくるものの全体の姿を把握できる。

 

見るから観るという行為は、その一か所ではない為に、物の動き、物の色、物の形、物の変化を見る事ができる。

 

その為に、見るとは異なり、その物の全体を観る事で、思っていた事との違い、思っていたという先入観を変えることができ、あらたな変革の知恵を得る事ができるのである。

 

そして、視るとは、「中心」である。

 

見るは「点」、観るとは「線であり円」、

 

視るとは、点から線になり、それを丸く円周にした先の「中心」位置を意識する事にある。

 

視るとは、見る事と観る事の先に在る。

 

見る事しか知らない物は、観る事はできず、

 

観る事に意識し過ぎると、その先の視るものは見えて来ない。

 

視るとは目で見る物の先に在る。

つまり、感覚である。

 

そこには、ただ、見るだけでなく、

 

視る事で感じる何かがある。

 

自分の追い求めている何かがある。

 

本来見えている物の世界は、自分の都合の中に在る。

 

自分の世界、自分の事、自分の都合の中で、ものの価値を決めている。

 

その物の価値は、自分の都合や価値観を捨て、その真実に向き合わなければ見えて来るものも見えてこない。

 

本当にその物を視るのは、正面より、時に横から、時に、裏から眺めてみるのも良い。

 

そしてその時には、焦り、不安、苛立ち、他者の真実をすべて捨て、

 

見えて来る世界にただ集中するのである。

 

そうすれば、見える物に、ただ不満や焦りを感じず、

 

その先の素晴らしさにきっと出会える。

 

その学びも、氣康の一つである。