こんばんは。
北関東では、昨日も夜中に地震がありました。
どんなに眠りについていても、
一瞬で目が覚める…。
「またか…。」と、心のどこかで、覚悟をする自分がいます。
あの日のように…。
今日で東日本大震災から1年になります。
仕事中に遭遇したあの揺れを、今ではあまり覚えていません。
あまりにも現実離れしていて…。
でも、揺れが収まってからのことは、昨日のことのように覚えています。
あの日に、今までの「普通」が、音を立てて崩れました。
明かりのない夜…
食べるのもが買えない不安…
ひっきりなしに起きる余震…
ただただ、家族の命があることに感謝し、涙しました。
私たちが建てた、この家がある場所は震度6強。
当時暮らしていた場所から100キロ離れた所。
見に行きたくても行けませんでした。
地震直後は、
「一度も暮らすことなく、家は倒壊しちゃったなぁ」と覚悟をしました。
引き渡しは、地震の3日後。
余震が続く中での引き渡しは、
嬉しさよりも、これからの不安の方が大きかったです。
幸いにも、ヒビ一つ入ることもなく、
完璧な状態で立っていてくれた家を見た時に、
思わず涙が出てしまいました。
今でも思うんです。
インテリアだの北欧だのって、はしゃいでいるけど、
家づくりに大切なことは、それじゃないって。
家族の命を守る強い家でなくてはならないんだって。
そう言う意味では、私たちは考えが甘かったです。
間取りや設備等には力を注いだくせに、耐震なんて、おまかせ状態。
北欧雑貨は買うくせに、懐中電灯すら買って持っていない…。
今でも、この家を見るたびに、そのことを痛感します。
この家は、「震災の家」だと思っています。
あの揺れに耐えたところから家の歴史が始まり、
その家で私たち家族の生活はスタートしたのですから…。
地震から1年、本当の不安は今の方が大きいかもしれません。
私の家は、福島第一原発からちょうど100キロ。
幾度か、家を出て避難するかを考えたこともありました。
小さい子供のことを思うと、新しい家に住むべきか…。
目に見えない放射線におびえながらの生活に耐えられるのか…。
でも、私の出した答えは、
生まれ故郷に帰ること。
あの混乱の中で、
より原発に近い場所へと一家転住をすることを、
やめた方が良いと諭す人もいました。
でも、ここは私の故郷。
ここで、生きていくんだと決意するのに時間はかからなかった。
お姉ちゃんは、幼稚園から帰ってくると、
「お砂の中にホウシャがいるから、触っちゃいけないんだって」と得意そうに話します。
子供たちが、当たり前のように放射線と隣り合わせの状況を、やっぱり悲しく思います。
昨日のテレビの震災番組。画面の中、揺れる映像をみて、
「ママ!逃げなくちゃ!」と、つたない言葉で懸命に私を引っ張る弟くん。
当時1歳だった彼の心にも、深く地震が刻まれているかと思うと、辛く思います。
いつものランニングコース。
↓
いつからか、放射線量を示す看板が設置されています。
↓
1年前にはなかった光景。
これから、ずっと放射線量を気にしながら生活するのかと思うと、
不安にもなります。
でも!
でも、この子たちは、私の子供!
きっと、きっと強く生きていくと信じています。
この大雑把な母の性格、
遊びたきゃ、思いっきり外で遊べ!って送り出しています。
砂遊び、思いっきりやってきなって言ってあげたいと思います。
子供は、泥んこになって大きくなっていくんです。
もちろん、母として放射線から子供たちを守るための最低限の行動はとりたいと思いますが、
やっぱり、いつも通りに生活していきたい。
今までも、これからも…。
東京マラソンのランナーの背中に、こんなことを書いていらした方がいます。
決して天を憎まず、
今、目の前にある悲しみや苦しみを受け止め、
皆で分け合って生きていきたい。
おそらく、被災地から参加された方でしょう。
ズシンと心に響きました。
おそらく、一生忘れない言葉です。
この1年は、
自分の環境が激変したため、あまり余裕がなかったかも知れません。
出来たことは、募金をすることくらい…。
1年たった今、本当に支援が必要になってくるのはこれからだと思います。
今の生活に慣れてきたからこそ、
私にできる復興支援を考えていきたいと思います。
まずは、今日のあの時刻に、
小さい子供たちと、ささやかながら黙祷をささげたいと思います。
最後に、
亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、
今なお、辛い生活を強いられている被災者の方々が、
1日でも早く以前の生活に戻れますよう、お祈り申し上げます。
最後まで読んでくださってありがとうございました。