哲学対話とは

 

哲学と聞くと、なにやら難しそうだというイメージが先行するが、著者は「哲学とは、問い、考え、語ること」と言っている。

 

一人で、「今日は何をしようか、これとこれとこれをやらなくてはいけない」などと考えることは、哲学対話の「考える」ことではなくただ思いを巡らせているだけであり、哲学的に「考える」ためには問いが重要であるとのこと。

 

いつ、どこで、誰が、どのように・・・と、どんどん問いをたて、その問いをさらに問うていくことが、哲学的に考えるということになるようだ。

 

ただ、これは一人で考えると堂々巡りのようになってしまうため、著者は10人から15人のグループで輪になって話す、ということを提唱している。

 

色々な考えを持った人、専門分野が違う人が集まって話した方が、思いもよらなかった問いが出てきて深く考えるきっかけになる上、他の人との対話が終わった後も自分の中で何度も時には何日も時間をおいて考えることで、さらに新たな問いが生まれ深く考えることになるという。

 

私は職場で行なっている探究活動というものの中で、問いをたてることの難しさを経験した。身近にあるもので問いをたてよと言われて初めて、自分は身の回りのほとんどのことに何の疑問を持つことなく、スルーしていることがわかったし、問いをたてることの難しさを味わった。

 

だからこそ、人は考えることをほとんどせず、めんどくさいという名の思考停止をしているという著者の記述にも納得する。

 

そして著者は、学校という場が、考えるということを教えないし、素朴な問いもできない場になっている、と指摘している。

 

生徒たちは、いい質問だね!と教員に言わせるような問いをしたいと思い、友人にバカじゃないの?と思われるような質問は恥ずかしくてできない、と。また、教員は、なんでも質問しなさい、と言いながら、突拍子もない質問には腹をたてると。

 

しかし、この部分には物申したい。学校はそういうことを教えるようにカリキュラムが組まれていないのだから仕方ないと私は思う。

 

筆者が提唱する哲学対話は、学校教育でできないものではなく、むしろ取り入れた方がいいと思う。しかし、哲学対話をやりましょうという場と授業という場では、やはりやることが違う。

 

通常の授業でなんでも疑問点を発表し、みんなで対話しましょうというスタイルを持つと、教科書の内容は終わらない。受験を控えた高校生の授業でそれをやると、とんでもないことになる。進学校であればあるほど、時間が取れない。

 

学校の先生は考えることを教えてくれない、変な質問をすると嫌がる、学校は考えずに知識を与えるだけの場だと言われるのは、大迷惑だし現場をわかっていないと思う。

 

哲学的に考える方法を知っていれば、自分で学習するときに大いに役立つであろう。だからその方法を知っているに越したことはない。いや、知るべきであると思うし、そういう時間を定期的に取って、「考えるとはどういうことか」を学ぶのは必要なことであると思った。

 

であれば、どのように学校教育に取り込んでいけるのか、現場をどう変えるのかを、カリキュラムを知った上で提案していただきたいと思った。

 

近年、「考えることは大事、これからはもっと大事になる」と言われているが、確かに「哲学的に考える方法」は学校では教えてくれない。

 

他の人と自由に問い、話し、聴くことで考えが広く深くなるという哲学対話の手法を学び、体験を重ねていくことで、哲学的思考を身に付けることができたら、筆者の言うように、息苦しい世間の常識、思い込みや不安そして恐怖から解放されるのかもしれない。