本書から学んだことは、3つある。

 

1つ目は、自分で考えていた、と思っていたことは単に「思いを巡らせていた」だけだったということだ。

 

自分で考えることというと、その日に何をしてどう過ごすか、今後1週間、1ヶ月間で何を成し遂げていくかなど自分や子供に関すること、仕事をどのようにやっていくかという仕事に関してのことくらいである。

 

でも、筆者の「考える」とは、問いに問いを重ねていくもので、すぐに答えが出ないものでもある。時に数年も考えを深めることさえあるだろう。

 

自分の生活を振り返ると、この筆者の言う「考える」ということは最近ほとんどやってないのではないかと感じた。目の前のやるべきこと、こなさなくてはいけないことが次々に降ってきて、それを消化していくだけで毎日精一杯だからだ。

 

2つ目は、「哲学とは恋愛のようなもの」ということである。

 

生きている間には、どんな年齢や境遇であっても、自分で向き合わなければならない問題がある。それには、自分の中から湧き上がるものもあれば、外部から迫ってくるものもある。

 

自分一人で答えを出すことは難しいこともあるし、誰かと一緒に考えれば良い場合もあるが、出てきた問題に対して、問うことは自分がやらなければ誰もやってくれない。

 

これを筆者は恋愛や人生と置き換えて述べいているが、確かにわかりやすいと思った。

 

誰かが大恋愛をしたからといって、自分も大恋愛をしなくてはいけないことにはならないけど、何もしなくていいかというとそれも違う。

 

恋愛下手だからといって、過去の恋愛が無駄になるわけではないし、人を好きになってはいけないということにはならない。さえない人生だから生きるに値しないわけではない。

 

結局、自分で身をもってやってみるしかないということだ。人から学び、真似をすることは大いにあるけれど、自分が最初から始めなくてはいけないし、うまくいかなくても、嫌になっても手放すことはできない。

 

それが、哲学も同じで、哲学=考えること とすれば、思考のレベルや深さなどを求めなくて良い。誰のためでもない、自分のために考えるということだし、自分でやらなければ自分のものにならないということだ。

 

これを一緒に考えてくれる人がいたら続けられるからこそ、筆者は対話でするのがいいと考えている。

 

3つ目は、考えるにあたっての問い方である。

5W1Hで問う、という基本のやり方から、さらに「小さな問いから大きな問いへ」または「大きな問いから小さな問いへ」というやり方もあることを知った。

 

例えば「子供がなぜ泣いているのか」という問いに、自分にとっての問いの意味を問うということである。

 

疑問を持つ自分自身に「なぜ」と問うと、「なぜ私は「なんでこの子は泣いてばかりいるのか」と問うているのか」となり、それは「なぜ私は子供が泣くのを気にしているのか」と言い換えられる。

 

そのあとさらに問いを重ねていくことで、目の前の問題から離れ、大きい問いに移っていくことができるという。

 

子供が泣いていることを気にしているのは、自分が良い母親でいたいと思っているからか、なぜ良い母親でありたいと思っているのか、というような問いになっていくと、目の前の子供の問題は、全てではなくても自分の中にもあったということに気づくことができる。

 

すなわち、思い込みであったり世間の常識と言われるものにとらわれていることに考えが及ぶことで、子供に対してもっとおおらかに接することができるかもしれないし、自分自身を責めて追い詰めるということも避けられるかもしれない。

 

以上、3つの学んだことを踏まえて、私が今後の生活にどう活かしていくかを考えた。

 

自分の今までの生活では、単に思いを巡らせただけで、「考える」ということがほとんどできていなかったということが認識できた。ググるという癖がついてしまい、ググって分かれば終わり、になっていた。

 

そこで、自分が取り組んでいるもの、仕事でのことなど、1度にすべてはできなくても少しずつ、「考える」ということを増やしていき、思考を深めたいと思ったのだが、問題が1つある。それは、時間という大問題である。

 

問いに問いを重ねることで時間は膨大にかかるだろう。それを考えるだけで私にとっては取り掛かるにあたっての高い壁になることは明白である。

 

だから、自分に1日1つ、問いを5つくらい重ねてみるということを課し、深く考える訓練をしていけたら良いのではないかと考えた。

 

まずは「考える」ということのハードルを低めにして、やってみるという行動に移すことを最優先にしてみたい。

 

また、どんなことは職場の人と共有して考えると良い議論ができるのか、子供と共に考えると楽しいことになるのか、などがわかってくると、本書で推奨されている「哲学対話」の真髄が少しは見えるかもしれない。

 

自分だけで筆者の言う哲学的思考を深めることは、やはり限界があり、面白みもなく時に辛い作業にもなるだろう。

 

人と自由に問い、語り合うことで、考えは広く深くなっていくものなのだ。

 

嫌になったらその問題について考えるのを一旦やめてもいい、と筆者は述べているし、要は気楽に、でも時に深く物事について問いに問いを重ねてみよう、ということだと私は理解した。

 

今の、忙しく情報が溢れる時代では、考えること自体が面倒くさく、それは思考停止につながり、それは世間一般の意見に同調することになり、自分の意見は忖度を求められる。

 

それは息苦しく生き辛ささえ感じることもある。

 

哲学対話は、対話を通して哲学的思考を体験し、このような息苦しさや生きづらさから解放してくれるという。

 

私が、筆者の哲学対話を体験できる時がくるかどうかはわからないが、問いに問いを重ねるやり方を自分自身で積み重ねておくことで、仕事でも子供や身近な人に対しても、対話しながら考えを深めていくということができるかもしれない。

 

それが、自分に対しても自分以外の誰かに対しても、筆者の言う「解放」につながることがあるなら、本書を読んだことによる学びが最大限活かされたということになるるのではないだろうか。