唐松山 護国寺
【宗派】曹洞宗
【寺院本尊】聖観世音菩薩
【札所】最上三十三観音霊場 第五番札所
【札所本尊】聖観世音菩薩
【通称】唐松観音
【所在地】山形県山形市釈迦堂字上唐松500-2
【概要(最上三十三観音札所別当HPより)】
山形と仙台を結ぶ国道286号線沿い、馬見ケ崎川の右岸に五番札所唐松がある。本尊は聖観音、弘法大師の御作と伝えられており、境内は東西が三十七間、南北が二十間である。一条天皇の正歴元年(九九〇)、平清水の郷民森山氏の妻が戦死した夫の冥福を祈るため、唐松山の霊窟に観音像を祀り河岸に草庵を結んだ、これを「江滸尼公庵」と言った。これが寺のはじまりとされている。
その後馬見ケ崎川の上流に住む藤原藤太(炭焼藤太とも称)に京都一条殿の豊丸姫という美女が清水観音のお告げによってはるばる訪れ、奥州宝沢の里に辿りつき藤太の妻となった。その豊丸姫の念持仏の弘法大師作一寸八分金無垢の聖観音像を、藤太が永久元年(1113)唐松山の霊窟に祀ってその前に堂宇を建て拝殿とし衆人と共に崇敬していた。これが唐松の始まりであると伝えられている。
その後人々の信仰を集めるようになってにわかに松宗庵と護国寺の二人が別当と名乗り出て役所に訴訟を起こした。二人共その根拠がなかったのでその職を解かれ改めて裏山の山守頭を務めていた石井奥太夫宗吉を別当職に任じたのである。寛文元年(1661)三月、時の山形城主松平下総守忠弘(清長)は深く唐松に帰依し、居城鬼門の守護仏として鎮城護国の道場に定めて観音堂創建を計り郡奉行市川七郎右衛門、日向六郎兵衛、竹下三郎太夫に命じて建設に当たった。三人は京都清水の観音の舞台を模して総檜材懸崖造りの荘厳な大悲閣を建立したのである。
その後堀田家の再建(1706年)、水野家の大修理(1856年)等代々の城主が修復に心を配って来たが、昭和の代となり御堂は荒廃甚だしくなったので再建の話が持ち上がり、信者よりの浄財をもって昭和五十一年五月に新観音堂の落成を見たのである。