旧制博多教養高校~岩波を砕く~ 旧制博多教養高校~岩波を砕く~



「不快な妄想」


水平社と聞けば、日本史の授業でちょろっとやったんじゃないか。

被差別部落って言葉知ってるはずですし、ネガティブイメージも持ってると思う。少なくとも良い要素は持っていないんじゃないか。僕もそうである。人が生まれながらにして職業的な拘束や社会で不利益を蒙るのは宜しくない。それがある種「開放」されたのは悪いことじゃあないともいえる。しかしである、政治闘争というものにそれをダシにするのはよくない。


 結論からいうと、これは左翼イデオロギー本である。トンデモ本である。まずなにがトンデモかといえば歴史を解釈で歪めすぎている。

 このブログで何度も言っていることだが、封建主義の時代から社会とはピラミッド型である。鋭利なそれか、カマボコ型か、台形かはその時代と状況によるが、日本はアジアで唯一の封建国家であった。この点、肯定的に捉えうる。なぜなら重厚で精神性の高い制度が発展すればそこに文化が生まれるからである。日本が天皇制なしに日本文化が発展しなかっただろう。

 それを認めたくないのが左翼である。時代は常に進歩するのであるから、かつての封建制度は全部誤りであると。その具体的な表われが被差別部落であると著者は主張するがヒネクレ者である。差別の何がよくないのだろう。僕は被差別部落と聞くだけで心躍ってしょうがない。


 この本では具体的に、被差別部落の成り立ちが時代ごとに、制度ごとに、地域ごとに、どうやって成立したかが書いてある。ヤバい。県別の被差別部落の戸数まで書いてあるし、特に「職業でどんな差別が生まれたか?」についての項はよい。よく言われることであるが、革製品だとか竹製の籠を作っていた日々の集落をサンカと呼ばれていたり。これはサブカル的な楽しさである。五木寛之の世界である。ある人間の作った制度や差別の矛盾の中に人々が「キャラクター」を持って生きていることを我々が知れるのは単純に面白い。それは過剰に平等化された日本で、のほほんと生きているから言えることだ!などと言われるかもしれないが、そんなことは江戸の庶民が真田幸村に憧れるのとそう変わらない。歴史のエッセンスは、先達が何を感じ、考え行動したのか想像することだろう。それ以外に何があるというのだ。


 かくてこの書物は過去の政治文化習俗から生まれた「制度的奇形児」ともいうべき被差別部落の文化を全否定することで社会変革を起こしたような体を装っている。そうはいっても差別はなくならない。皆が経済的に豊かになれば経済的な格差が広がり、教育が充実しても大学に通う者とそうでない者が差別される。

 差別のタネは減ることがないし、増える一方である。むしろ学歴とか経済のほうが合理的な理由がある分だけ個人に重荷がかかる。しかもその「毒」は誰彼かまわず降り注ぐ。田舎ののんびりした人が受験や格差社会に苦しむのなんかより、伝統が培った逃れようのない差別のほうが、まだマシだと思うのだが。したがって、古い差別の話をするのは余計に差別的では?といった読後の気分である。

 岩波=左翼の政治宣伝本であった。焚書である。