「いいヤツには、ちゃんといいことがある」

大学にも入ったし、ド名作を読まねばと思います。
そのむかし、全共闘世代の連中は「読んでない」ことを恥とする日本的な文化があったそうで。
アタマの良さや思想の正しさとは別で、その知的努力の欠如を責めるならまだしも、「会話で上に立てる」っていう一点だけで優位性を保つっていう、なーんか気味悪いなと思う訳。
知識量で上から語られると。これを「マウンティング」と呼んだそうです。
いまなら、上から目線~んなんて言うやん。
あれは倫理的に正しいかどうかじゃなくて、説教ジミたことを少し述べたり、立場の上下を無視して意見をいうとかに、感情のレベルでenvyを感じるんでしょう、事の正しさは別として。
その辺の私的な感情を超えた強さとか、知性や人徳ある人に対する敬意って、日本人いつになったら持つのよ。
ほんと下らねえなと思って聞いてますわ。
全共闘の人はまだ知識を増やそうって気があるだけ誠実ですわ、知識の使い方が全部間違ってるだけで。
ということで大学で「良い」マウンティングする為に読みまくりますわ。

坊ちゃん今更ながら。涙が出る。
形式は独白と実況で、漱石の落語好きが影響してるんじゃないか。
思想は文体に現れるもので、自分含めた人間の不完全さ、傲慢さ、倫理性の欠缺をさらっと認めるんだ。
後年の、三島や太宰あたりになると、自分にこだわるでしょう。我というか。
この頃の作家は国民作家といわれるだけあって、万人に愛される普遍的な笑いを提供してくれて、ある種の自意識を持ち合わせた人じゃないと読めない上記の意匠にはない暖かさがある。
あらすじを説明するのも面倒だが、必ず一度は手に取りたい一冊なのであろう。
親を亡くす前のボンボン時代に雇っていた家政婦のバアちゃんを思う毒舌の若造が主人公で、
田舎の学校に赴任し、都落ちのルサンチマンを乗り越えて自分の強さを確かめる青春後期における人間活劇とでもいおうか。必読。

次はボードレールかフロベールかシャトーブリアン

「情念の論理」

 言葉ってものを一番信頼していて、もはや僕の友達は田坂君以外では英和辞典くらいしかいないのです。ほんと人間が大嫌いで、それでもドアノブとかハイヒールを愛せる訳も無く、したがって人間に興味を持ったり飽きたりして生きているんですが。
 私が今後勉強したいのはフランス文学です。というのも、ある大学の仏文科に入学したので勉強し直さねばならなくなりました。その動機はこうで、logue言葉なるものの前提には必ず情念があります。何かを好きだとか、喜びとか、神への崇敬もろもろあって、例えば「愛」という語句は成り立っているんでしょうたぶん。ラブなりエメなり。したがって、言葉には情念の持続性や、強さ、あるいは正しさが内在している訳です。一度、「君が好きだ!」と述べたら、せめて三ヶ月くらいは好きでないと、その言葉を使った奴はきちがいということになるでしょう。笑。それと同じで、ある意味をもった語句でも、具体的な名詞でも、言葉が多様性を帯びて紡がれれば、ある一つの形式になる。それが論理logicに昇華したり、学問の~logyに進化したりして、言葉logueが体系化される。言葉は人間の英知であると同時に人間の情念が集積して出来たものだと言ってもいい。
 翻って、仏文には強い情念の力がある。フランス人はほんとにうるさい。何を怒っとるんだというくらい、気持ちに溢れている。しかし日本人の情緒的な感性とどう違うのだろう。結論から書くと、理性的なんだと思う。言葉の持つ情念、敢えていえば「感情の論理」を、理解している。感情が強い人は言葉もどこか「強い」ものだ。その理性の発祥は、宗教であり、それに伴う宗教戦争と革命、文芸復興運動や世界大戦など、人間の外部的な要因で鍛えられた英知の力なのだろう。
 「平和ボケ」の対義語があるなら、「インテリヤクザ」であろうか。私は後者に惹かれる。前者のマヌケさは戦後長いこと浸ったし、もう飽きた。実用性があって、英知を含んだ強い言葉があるなら、ヒマで賢い私が紹介します。フランス行って探してきてやる。

 岩波図鑑で読みたい本をあげる回があったが、それに類似する。我ながらセコいかもしれない。
フランス文学といえば文学の代名詞であろう。それもこれも理性故のである、繰り返し。
 実は仏文、歴史が浅い。1000年程度しか蓄積がない。というのも、ローマの衛星国であり、ラテン語が長く公用語であった。オック語など田舎言葉と混ざり合って出来た方言がフランス語である。従って、フランク民族が独立し、独自の言語を用いるまでに時間がかかった。風刺や機知に飛んだ反骨性も、他民族や王制の抑圧など民衆の自律までの苦難が長かったからではないか。
 時代区分は大きく分けて6つ。中世期、16世紀、17世紀、18、19、20といったところ。この本の序文にあるが「フランス文学全部を一遍に知ることはできない」当たり前である。著者が二人もいる時点で判りきっている。しかも戦後仏文界のボス、東大の渡辺一夫である。

 中世期。カトリック支配まっただ中です。内容も真っ直ぐで穏やかな「フランスらしくない」感情を抑えた小説しかありません。大別すると、武勲を讃えるポエム、宮廷文学、風刺写実文学、田舎の素朴な小説など。「バラ物語」のような訓辞めいたものなんか魅力的ですね。
 後期になると、そろそろ民衆が富と権力を持ってくる。カネがなきゃ紙にペン染みをつくる暇なんかない。フランソワ・ヴィヨンが出てくるのもこの時期である。昔から民の力が強いからこそ民主主義もまあまあ成り立つんであろう。

 16世紀はルネサンス。「文芸復興」などと訳されるが内容は文芸だけではない。「再び巡り来る」の意味で、中世、学問の自由がなかった時分を乗り越えて「最初のパッションを取り戻そう!」の意。学者に認められる解釈の幅や創作の種類も限られていたんだな。その中で一人気になる人物がいて、それがフランソワ・ラブレー。秋山祐徳みたいな顔してこの人が何をやったかいうと世界で初めて下ネタを書いた。これだけで功績である。「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」がそれである。糞尿潭という名前もあるが、巨人物語である。でっかい王子様がやりたい放題やるんだな。渡辺一夫の訳が読みにくかったら、筑摩文庫で最近全巻出たのでそちらをすすめる。
 あとはモラリストの潮流だろう。僕、こちらも若干の好感を持ってるんです読んでないけど。モンテーニュがその大立て者である。彼はカトリックに帰依しろ!しか言ってないらしい。
 最後に王党派という極右政治勢力が残した「メニポスの風刺」、演説の分析が書いてあるらしい。

 17世紀は王制がぐらついてもはや個人の時代。理性が称揚される。そこで出てきたのはパスカルやデカルトたちですがあんま興味がない。創作方法も多様化しモリエールなど戯曲が出版される。
 モラリストはこの世紀もいて、古典を軸に現代を説く人らにはラ・ロシュフコーやラ・ブリュイエールがいる。三島が依拠する思想もこの辺。

 18世紀。知識人・上流流階級のみならず民衆に啓蒙思想が流れていく。モンテスキュー・ルソー・ヴォルテールなどは世界史でもやっただろう。神の制度的な保障を観念せずに人間の理性に正義があると。まあ一理だけど完全無欠じゃないことを認めないって、僕は嫌いだな彼奴ら。
 同時に人間の感情を表現する作品、ロマン派が出てくるのもこの時代。古典派のニヒルさから楽観的な人間性を信頼した人たちである。サン・シモンらがそれにあたる。
 変態っぽい方向でいえば、マリヴォーのピカレスク小説なんてのもある。

 19世紀。フランス文学の集大成的な時代である。政体がグラついてましたし、戦争にも負けるし、散々な時代。対比的に人間の感情が燃えるロマン主義の時代です。
 その始祖はシャトーブリアンである。貴族の彼の人生は面白いので後日。
 人間をよりロマンティックに美化して書こうとした。詩人は、流行のユゴー、ネルヴァル、デュマ親子などだろうが甘ったるくて興味がない。
 その傾向が深まってだんだん写実的な様子を見せるのはバルザックから。巧みな心理描写を駆使して様々な階級の生活や政治状況を書いた。これは必ず読む。
 フロベールやらスタンダールは大学で読んだわな。これもフランス文学が文学の代名詞たるに相応しいお歴々だろう。

 20世紀。この世紀、おれ嫌いなんだよ。実存主義とかね。不安から人間が考え出すんだなー。これも説明してたら長くなるから適当に調べてくれ。マルロー、カミュ、サルトルなんかは通ったけどなー。

 なんかこうフランス人って考え出すとロクなことがなくて、感じたり信じたりする精神運動にどっちかといえば良さがある気がするナア。欧州人の中でもチビで、いつも戦争に負けてて、でも気合いは入ってるから口がデカくて、感受性が強いから恋愛好きで、ベラベラ喋って言葉に強さを持っている憎めない人たちな気がしている。ちゅうことで仏文とこれから付き合っていく。


旧制博多教養高校~岩波を砕く~ 旧制博多教養高校~岩波を砕く~



「不快な妄想」


水平社と聞けば、日本史の授業でちょろっとやったんじゃないか。

被差別部落って言葉知ってるはずですし、ネガティブイメージも持ってると思う。少なくとも良い要素は持っていないんじゃないか。僕もそうである。人が生まれながらにして職業的な拘束や社会で不利益を蒙るのは宜しくない。それがある種「開放」されたのは悪いことじゃあないともいえる。しかしである、政治闘争というものにそれをダシにするのはよくない。


 結論からいうと、これは左翼イデオロギー本である。トンデモ本である。まずなにがトンデモかといえば歴史を解釈で歪めすぎている。

 このブログで何度も言っていることだが、封建主義の時代から社会とはピラミッド型である。鋭利なそれか、カマボコ型か、台形かはその時代と状況によるが、日本はアジアで唯一の封建国家であった。この点、肯定的に捉えうる。なぜなら重厚で精神性の高い制度が発展すればそこに文化が生まれるからである。日本が天皇制なしに日本文化が発展しなかっただろう。

 それを認めたくないのが左翼である。時代は常に進歩するのであるから、かつての封建制度は全部誤りであると。その具体的な表われが被差別部落であると著者は主張するがヒネクレ者である。差別の何がよくないのだろう。僕は被差別部落と聞くだけで心躍ってしょうがない。


 この本では具体的に、被差別部落の成り立ちが時代ごとに、制度ごとに、地域ごとに、どうやって成立したかが書いてある。ヤバい。県別の被差別部落の戸数まで書いてあるし、特に「職業でどんな差別が生まれたか?」についての項はよい。よく言われることであるが、革製品だとか竹製の籠を作っていた日々の集落をサンカと呼ばれていたり。これはサブカル的な楽しさである。五木寛之の世界である。ある人間の作った制度や差別の矛盾の中に人々が「キャラクター」を持って生きていることを我々が知れるのは単純に面白い。それは過剰に平等化された日本で、のほほんと生きているから言えることだ!などと言われるかもしれないが、そんなことは江戸の庶民が真田幸村に憧れるのとそう変わらない。歴史のエッセンスは、先達が何を感じ、考え行動したのか想像することだろう。それ以外に何があるというのだ。


 かくてこの書物は過去の政治文化習俗から生まれた「制度的奇形児」ともいうべき被差別部落の文化を全否定することで社会変革を起こしたような体を装っている。そうはいっても差別はなくならない。皆が経済的に豊かになれば経済的な格差が広がり、教育が充実しても大学に通う者とそうでない者が差別される。

 差別のタネは減ることがないし、増える一方である。むしろ学歴とか経済のほうが合理的な理由がある分だけ個人に重荷がかかる。しかもその「毒」は誰彼かまわず降り注ぐ。田舎ののんびりした人が受験や格差社会に苦しむのなんかより、伝統が培った逃れようのない差別のほうが、まだマシだと思うのだが。したがって、古い差別の話をするのは余計に差別的では?といった読後の気分である。

 岩波=左翼の政治宣伝本であった。焚書である。

 この短編集に収められているのは、坂口曰く「自伝的作品」と呼ばれるもので、意識的に「私小説」や「自伝」と分けて考えているようだ。最後に収録されている「わが思想の息吹」を読むと、その辺のことがかなり具体的に記されている。ちょっと引用すると、


私小説というものは、事実を主体とするものであるが、私の自伝的作品の場合は、一つの生き方によって歪められた角度から構成された「作品」であって、事実ということに主点がない。

だから、何を書いたか、何を選び出して、作品を構成したか、ということに主点があり、これを逆にすると、何を選ばなかったか、何を書かなかったか、ということにも主点があるわけだ。


たとえば、以前にとりあげた田山花袋の「蒲団」は、自身の「ファン食いたい」というようないやらしい裏側の部分を、赤裸々に書ききった、ということが大事なわけで、そこにインパクトがあったわけだが、坂口がいう「自伝的作品」では、それは大事ではなく、ある事実を、坂口安吾という人間を通して受け取ったものを、さらに、作品として構成するために書くこと、書かないことを選択しており、その作品意図を読み取ってもらうことに大切な主題がある、ということなのだと思う。


そう思って読み出すと、なんでこの人は仮名で、この人は本名で書いてるんだ?とか、まるで自分のことのように書いてるな、とか、構成のことが途端に気になりだす。なりだすが、ここから先は研究者の仕事なのだろうと思って、わりと読み飛ばしてしまった。

読み飛ばせてしまうのだ。元来、他人の生活に興味のない私だからかもしれないが、こういう「自伝的作品」あるいは「私小説」に対しては、ほとんど週刊誌のゴシップ記事を読むような感覚でしか接することができない。もちろん、言葉の美しさ、面白さは週刊誌のそれとくらぶべくもないし、とにかく坂口安吾はスケベで浮気者なので、その辺に共感したりはするのだが、内容は結構どうでもいい感じがする。なにか、人生の道しるべになるようなことが書いてあったりはしないのだ。

そもそも小説にそんなこと求めちゃいけないのかもしれないが、それにしても僕は単純だから、なにかに一生懸命打ち込んでいる主人公を見て、「おれも頑張らなくては」みたいなことはすぐに思う性質なのだが、この短編集にはそういう人がでてこない。あるいは、そういう人がそういう風に書かれていない。

けれど、そこで思うのが、当時から小説なんてそういうものなのかな、という想像である。読んでる間だけ、楽しめればいいのであって、その楽しさは、人生を豊かにするようなことではなく、なんか文章が楽しい、という程度のことだったのではないか、と勝手なことを言って今回は終わります。

旧制博多教養高校~岩波を砕く~

「インテリの噺家」


みなさんがたも高校の現代文で読んだとおもいますが、「現代日本の開花」。学習院大学での講演からの抜粋で口語体なのは判るが、漱石は話がにょろにょろしていて凄い。

なにがにょろにょろかといえば、本を手にとってざっと文章見まわしても、抽象語彙がない!

普通なら、現代とは!民主主義の時代がきたっとか自由主義を諸君はどう生きるか!とか口角泡ふくもんじゃないですか。

それがお洒落さとか高邁さなんて微塵もない、前半から中盤までずっと具体的な比喩ばっかりで思想を表現している。

だから高校国語とかで取り上げられるくらい、若い人でも読みやすいのでしょうね。

日本が「西欧」の思想を取り入れるのは、いうなれば~~というのを延々にょろにょろ。

これはもしかしたら落語の枕ってやつなのだろう。

枕では「上滑りの西欧化に気付いてますか?まあそれしか選択肢はないんですけどね」と。


たとえば人は「義務から逃避」をする。

大八車をひっぱる仕事を自動車に代えたりする。

義務には変わりありませんが、でもそこで何かを捨ててるわけです。

便利を求めて捨てる。

大八車をつくる技術屋さんが貧乏になって困ったりする。

これらなんか新しい西欧のテクノロジーに頼って人間がより楽になりたいとする「消極的享楽」だとしている。

対して、釣りやら読書やらで「積極的享楽」を行う。

これらはなーんにも悪くない、むしろ文学や哲学にいきつくにはこの積極的な享楽を得ないと始まらないし、なきゃ社会は濁って腐臭がしちゃうと枕で定義した。


漱石は安易な西欧化いわば「文明開化」もカギカッコつきだぜ?あぶねえんだぜ?と示唆している。

それは、これらの文明=享楽の内容が変化するのは自分たちが意思をもってやってることじゃない、外発的な開花に過ぎないとしている。

「外発」ってのは文字通り「外から発信」。

ニーチェも同じこといってたけど、日本人が流されやすい体質なんだから気をつけろ!日露戦争になりゃそれだけっ、日英同盟になりゃそれだけっ。と漱石先生は気付いてたんだね。

ワンイシューでしか形而上的な問題を考えられないワーワー群がる大衆の体質を

自分たちが慎重に内発的に考えて作ったり選んでないものに、足元すくわれるなよと当たり前すぎるんだけど、この文章ほど日本人にとって本質的なものはない。


「私の個人主義」も名文です。

本質だけ書けば

個人主義は自分を尊重するだけでなく、他人を尊重すべき思想であるぞ!以上!です。

まあそれだけ叫んでも若い人は鼻白むわけです。

わたし具体的な話ってのが頭に残らない体質でして、理論とか抽象的な語彙じゃないと頭が使えない構造してる。

これもまたショーっぽいスピーチでして、やはりにょろにょろしている。

しかしエッセイをにも書いているが自分が西欧に渡ったり、教師になる上での経験から思想を語っているからとても聞きやすいし説得力があった。

個人主義なるものの本質である独立とともに他者に礼を尽くす「横軸」の問題と、国家や個人のアイデンティティの問題の「縦軸」の問題を、漱石の半生にからめた自伝のように語っている。


この公私を織り交ぜたパフォーマー感は評論家の西部邁氏を思い出した。