クラブハウスの入口に、大きめの若竹が持ち込まれていた。
その前に設置された小さなテーブルには、こよりのついた細長い色がみとサインペンが置かれている。
「さあさあ、願い事を書いて笹に飾ってね!あっ、大丈夫よ。これはマスコミとか関係が無いから好きなこと書いてくれて」
そう言って永田さんは、俺と清川さんに楽しそうな表情で色がみを手渡した。
ああ、もうすぐ七夕か。
清川さんはサラサラと願い事を書き入れて、手の届く一番高い場所へそれを結んだ。
『実家の家族とばあちゃんと文子が元気で楽しく暮らせますように』
ちなみに『文子』とは、実家で飼っている文鳥(メス)のことらしい。
俺はちょっと考えて『みんな怪我無く楽しくサッカーができますように」と書いた。
七夕が近づくにつれ、緑一色だった笹の葉はカラフルに染まった。
書かれた願い事は様々だった。
『食堂のメニューに、もう一度カニすきが出ますように』
『日本代表が男女ともワールドカップ優勝しますように』
『世良くんのピーマン嫌い克服メニュー完成』
共通していたのは、それらの中にリーグ優勝とかそういう記述は見当たらなかったってことだ。
それは叶えたい夢であり自分達が実現すべき現実であって、決して『願い』なんかじゃないからかな。
だから書かれたのは「こうなったらいいな」という類のものなんだろう。
「こりゃ達海さんだわ」
永田さんが呆れた顔をしたその一枚には『ベンチシートの高級化(ヴィクトリーみたいなの)』と書かれている。
苦笑するしかない。
「あ…でも、監督って結構あの椅子を気に入ってたんだな」
物に執着しない風の監督にも、欲しいものがあったんだな。
他に欲しいものとかあるのかな。
してほしいこととかあるのかな。
それに気付いた俺は、どうしても知りたくなってしまった。
達海監督の他の願いっていうものを。
正直に言ってしまえば、俺に叶えられることがあったらいいな、なんて淡い期待を抱いたんだ。
「ヴィクトリーのベンチって座り心地良かったですね」
「なに、お前。俺の願いごと読んだの?エッチなヤツだなー」
エッチって…。
でも、ここで挫けてたら監督と会話なんて成り立たない。
いい加減耐性も出来てきた俺は、挫けることなく会話を続けることにした。
ちゃぶ台の向こうにあるテレビで相手チームの試合を見続けている監督の横で体育座りしながら、俺は再び声をかけた。
「そ、そうなんです。願い事の紙を見て、これ監督だなって話してたんです。例えば、他に書こうと思った事ってあります?」
「そりゃあるよ。天然芝のグラウンドがもう一面欲しいとか、ナイター練習ができるように照明が欲しいとか、スタジアムは全天候型で開閉式にして欲しいとかな。でもさー書いたらフロントが泣きそうだし」
「ああ…泣いちゃいそうですね…はは」
見事にサッカー関連ばっかりだな。
しかも個人ではどうにもならないような。
ついでにクラブでも簡単に叶えられないようなスケールの大きさだ。
早速打ち砕かれた期待に傷心していると、逆に監督が俺に聞いた。
「お前はなんて書いたんだ」
「えーと。皆が怪我しなくて楽しくサッカーしたい、って書きました」
「いいな、それ」
監督はテレビに向けていた体を俺の方に向けると、軽く俺に口づけた。
チュッと音がして、俺はうわっとなった。
仕事の邪魔しちゃだめだって我慢してるんだけど、俺はおずおずと手を伸ばした。
触れても大丈夫かな。
そっと引き寄せてみると抵抗は無かったので、俺は意を決してギュッと抱きしめた。
その温かさと重みに、俺の熱も上がる。
監督だ、監督だ。
そんな当然のことを頭の中で連呼しながら、口とか頬とかに口づけを返した。
俺にしっぽがあったらちぎれるくらい振ってただろう。
まだ仕事の途中の監督は、録画された試合の続きを見ている。
俺は後ろからその椅子になりながら、性懲りも無く聞いた。
「サッカー以外のことで、書こうと思ったことありませんか」
「それ以外ねえ…笠っさんの前髪が戻ってきますようにとか、かな」
「いえあの、そうじゃないんです。サッカー以外のことで俺にして欲しいこととか、俺が上げられるものとかが知りたいなって…」
「え。ないよ」
一瞬の迷いも無く、監督はあっさりと一刀両断した。
ですよね、と思ったしそう答えもしたけれど、寂しい。
後ろから回した手を少しだけ強くして、目の前の監督の背中にピタリとくっつく。
「変なヤツだなあ。昔アッシーくんとか呼ばれるヤツが居たけど、そんなのになりたい?」
「あ…?何ですか、それ」
「昔、景気の良かった頃にさ、財布代わりにする男とか、車で送らせる男とかさ、目的別に男を用意するっていうのが女の子のステイタスになった時代があった訳」
そんなのが流行したのか。
とはいえ、そんな呼び方しなくても、何かを目当てにしてつき合う人間っていうのは珍しくない。
その目当てがお金だったりするのは、勘弁して欲しいけど。
でも。
「俺はただ、監督に喜んでほしいだけなんですけど…」
俺がコテンと自分の額を監督の頭に乗せると同時に、監督がうわぁと小さく叫んだ。
そして眉間に皺を寄せて、こっちを振り向きざま言う。
やだね、この天然は。
…って、どういう意味ですか。
監督はリモコンを乱暴に操作してテレビを消すと、怒ったような顔で体ごとこっちを向いた。
「してほしいこと出来たよ。お前にしかできないことなんだけどさ」
「は、はいっ!?」
出て行けとかそんなことだろうか。
仕事中にうるさく言いすぎたかな、俺。
すみませんすみませんすみません…!
一瞬のうちに、いろんな考えが頭を巡る。
気を逸らしていたら、また監督が俺に口づけた。
今度は一瞬で離れなかった。
俺の背中に回された腕に呼応して、俺も自分の両腕を回し深く口づける。
長くて激しいそれに、俺の体の熱はさっきのキスの時よりもグンと高く上がった。
それでも必死で引きとめた残りわずかな理性で、俺は監督に尋ねた。
「仕事、は…?」
「今日はもうお終い。代わりに明日朝4時に起こせよ」
「えと、でも、監督ってそんな早起きできますか」
「だから『起こしてくれ』って言ってんの。願い事、聞いてくれるんだろ」
「ま、まかせてくださいっ」
責任重大だ。
でも。
良く分からないけど、いいんだろうか。
部屋に入れてもらったりとか、キスしてもらったりとか、抱っこさせて貰ったりとか。
結局今日は俺が喜ばせてもらってばっかりな気がするんだけど。
これって良くないよな。
「俺の願いごとばっかり叶えてもらってる感じがするんですけど…」
「…お前、本当にバカだろ」
監督のあきれ顔の理由が俺には分からなかった。
でもせめて七夕の日には監督の好きなドクペとスイカバーを差し入れようと考えながら、俺は監督の熱に溶けていった。
わー…もう9月ですね…。
七夕企画とか言ってましたが、すでにそんな月になりました。
せっかくリクエストいただいたのに、のろくてすみません。
そして「え、これが?」とガッカリさせたかなと思う今日この頃です。
ついでにリクを頂いた下記のSSとは別に、自分の七夕ネタ書いてもいいだろうか…と躊躇する今日この頃です。
・「ニャンとWonderfull」
kmさんからいただいた「監督が好きで好きで仕方ない椿」がテーマです。
最も素直に「大好き」って出せそうなのが『わんこ』かなと思った次第です。
・「Hello my friend!」
じろさんから戴いた「クボタンと椿」がテーマです。
始まりをイメージして書きました。
オチというか健全じゃないかも?なネタばれな番外編ありで書き済みなので後日載せたいなーとか…。
・「You're my only shinin'star」
シズさんの「達海の現役時代の試合を見て自分が同じ背番号を背負っている事にプレッシャーを感じてしまいスランプ状態になってしまう椿君」と、miさんの「「(達海監督と同じ)35歳の椿大介」がテーマです。
長くなってスミマセン…。
恋愛に呑気っていうイメージがあるので、二人とも気長に一生付き合ってくんじゃないかなあと思いました。
【拍手お礼】
>9月1日
こんにちは、はじめまして!
サッカーシーンを褒めてくださりありがとうございます(ジーン)。
今週のモニ、表紙が本当に『バキタツバンザイ!』としか言いようのない、素晴らしいものでしたね。
単行本派とのことですが、ご購入なさった判断にお間違えは無いと思います。
グッジョブ!
おいおい。
勘弁してくれよ。
「すみ、ません…」
俺の心の声が聞こえたかのように、椿は詫びた。
吐く息は熱いが、その顔色は熱さには程遠いほど青白い。
飲み過ぎだ。
顔色が赤くならないだけで、十分酔っ払っていたんだな。
あれだけ飲めば当然か。
バーで2杯めの酒を飲み終えた後、店員が申し訳なさそうに閉店を告げた。
もう午前0時を30分も過ぎていた。
ゆっくりさせてもらったことに礼を述べてバーを出ると椿自慢の健脚はゆらりと揺れて、ついでに体も揺れていた。
大丈夫です、とかいいながらエレベーターのドアが開く前に座り込んでしまう。
全然大丈夫じゃないだろう、これ。
仕方が無いので、肩を貸して引っ張り上げてやる。
覚束ない手つきで椿が財布から取り出したホテルのカードキーをエレベーターのリーダーに突っ込み、宿泊階へ向かった。
到着するとさっきのフロントとはまた趣の異なる落ち着いたフロアを、俺は割と必死になって歩いた。
右肩でヘロヘロになっている椿をなんとか部屋に連れて行かなきゃならないからな。
スミマセンスミマセンなんてお経のように繰り返す位なら、足を一歩でも前に進めろっての。
ようやく部屋に入って電気を灯す。
入口とリビング-というのか?―の間に配置されたターンダウン済みのベッドを見つけ、俺はホッとした。
これで椿のヤツを休ませることができる。
「ほら、着いたぞ」
「………」
椿のヤツは完全に酒にノックアウトされている。
もう声も出せないようだ。
最後は歩くというより、俺が半分引きずるみたいになってたし。
肩にかけていた腕を外しベッドに移動させようとするが、上手く行かない。
四苦八苦して離すと椿の体はグラリと揺れた。
「あぶっ…わ!?」
勢い込んで俺ごとベッドに倒れ込む。
というより、俺の方がベッドに近かったから下敷きってやつだ。
大きなベッドが柔らかく包んでくれたお陰で怪我は無いが、上に覆いかぶさった形の椿はピクリとも動かない。
重い。
いや、ヤバい。
椿と俺の背はさほど変わらない。
ただし筋肉量が全然違う。
さすが現役アスリートだ。くそ。
必死に押し返しても、競り負ける現状に腹が立つ。
俺が何とか現状を打破しようと試みていると、のっそりと椿の腕が動いた。
ようやく動いてくれるのか。
ホッとしたのもつかの間、その腕は自分の体を持ち上げて俺を解放するどころか俺の頭をぎゅっと抱え込んだ。
「かんとく…」
囁くように俺のことを呼ぶ。
なんだよ、と返す余裕は俺に無かった。
頭の中は真っ白だ。
あの試合の夜みたいに。
スタジアムを出てから家に戻るまでの時間では、勝利の興奮にまだ高揚は冷めやらなかった。
ビールのアルコールも手伝って、浮かれたままの状態で部屋の中に入る。
鼻歌を歌いながらゆっくりと熱いシャワーを浴びて出てきても、当然椿はまだ家に帰って来ていない。
早く帰って来ねえかな。
すげえって褒めてやりたい。
試合の話しもしたいし。
椿が戻るまでの時間つぶしも兼ねて、俺は冷蔵庫からビールを取りだした。
しばらくビールで一杯やっていたが、なかなか帰ってこない椿を待つ間に眠気が襲ってくる。
部屋の中はあったかいし、アルコールがいい具合に効いてるし。
座っていたソファに横になると、瞼が急激に重くなる。
だめだ、眠い。
俺は瞼を閉じた。
どれくらい眠っていたんだろう。
気配を感じて目を開けると、何時の間にか椿のヤツが帰ってきていたようだ。
俺はすごいぞ!と椿を称えてやった。
「あっ、ありがとうございます。痛てっ!」
酔っていたせいで力加減が出来なかったのはすまない。
だが言いたかったことをやっと吐き出すことが出来て、俺は満足この上なかった。
ピッチの上でみた研ぎ澄まされた刃物みたいな迫力は今は無く、戸惑ったような、キョドッたような、ちょっと嬉しそうなそんな表情を浮かべているコイツは、一見どこにでもいるような善良な目の前の男にしか見えない。
そのことに少しだけ安心しする。
俺、また眠ってたんだな。
そう気付いたのは、頬に温かい感触が降って来た時に目を開けて居なかったからだ。
眠気に目を開けるのもおっくうになって、なすがままだった。
だってあったかくて気持ちいいし。
何かを確認するみたいにそっと触れられた手は大きくて温かい。
その指がちょうど耳のあたりの髪をゆっくりと撫でる。
まるであやされてるみたいだった。
誰だ?
そんなことをぼんやり考えて、ここは椿の家だということを思い出す。
-ああ、これ椿の手か。
優しく優しく髪を梳くその気持ちよさに身を任せて、俺はまたウトウトし始めた。
でもその手はすぐに離れた。
なんだよ、気持ちよかったのに。
もう一回撫でてくれないかな。
そんな風に残念に思っていると、もう一度手が頬に触れる。
ホッとしていると、不意に頬が寄せられた。
そして柔らかい感触が頬に瞼に-そして唇に。
―その時の椿は俺の身じろぎひとつで、大慌てで部屋を出て行った。
今日は酒に酔っているお陰でこっちが必死に起きて押し返してるっていのに、ビクリともしない。
ひっくり返ったお陰でくっついた状態だってのに、自ら俺の頭を抱え込むものだから肌は更にピッタリとくっついた。
6月の暑さは相当で、互いに上着なんて着ていない。
薄手の生地越しに、椿の体温がハッキリと伝わって来る。
熱い。
「監督…監督」
俺を呼ぶ小さな声も耳元で囁かれれば否応なしに耳に入って来る。
呼ぶ声と一緒に漏れる吐息が肌をくすぐって、真っ白になった頭がクラリとした。
俺の頭をギュッとしていた筈の指はいつの間にか解かれ、俺を確認するみたいに撫でる。
頬や耳を伝う指は壊れ物を扱うみたいに丁寧だ。
そんなことにじれったさを感じる俺も、アルコールでどうにかなってるんじゃないか?
「…です」
「え!?」
こんなに近いのに聞き取れないほど小さく椿が何か呟いた。
そして一度顔を離した。
代わりに手のひらを俺の頬に添えて、ゆっくりと顔を近づける。
俺は、ギュッと目を瞑った。
「ほら。水飲めよ」
椿は洗面所でうっつぷしながらもペットボトルを受け取り、半分ぐらいを一気に飲み干した。
顔色は悪いが、さっきよりかはずっと良い。
アルコールを戻したから、だいぶ楽になったんだろう。
戻したのはアルコールだけじゃねえけどな。
汚れた顔を洗い乱暴にタオルで顔を拭うと、椿は苦しそうに息を吐きながらフラフラとベッドに戻って倒れ込んだ。
眉間にしわを寄せてはいたが、しばらくすると穏やかな寝息が聞こえてくる。
やれやれ、だ。
俺はベッドサイドのミニバーからミネラルウォーターのペットボトルをもう1本取り出して、ベッドの反対側のサイドテーブルの目につく場所に置いた。
これで水が欲しくなったらすぐ飲めるだろう。
それだけを済ませると、俺はバスルームへ向かった。
今日はもう遅いから泊らせて貰おう。
ドアを開けると夜景を見渡せるよう一面のガラス張りになったバスタブがあったけど、シャワーブースへ入る。
天井から降って来る熱い湯を浴びながら、俺は漏らした。
「最後の最後でシマラねえヤツだなあ」
結局、あの直後、急に気分を悪くした椿はラボに直行して涙目になった。
口は体内に入れる所であって、取り出す場所じゃない。
それを覆す位なんだから、身体にとってよほどヤバい状態だったんだろうな。
…とは思うけどさ。
ククッと笑いがこみあげてくる。
なんていうか、ホント、退屈しないヤツだな。
バスタオルで体を拭いて部屋に戻る。
ベッドの上では椿のヤツが、クークーと寝息を上げながら平和そうに眠っていた。
楽になったんなら何よりだ。
俺は少し考えて、椿にやって貰ったように髪を撫で瞼にそっと唇を落とした。
それから部屋のクロゼットを開けた。
こういうとこってバスローブとかありそうなんだけど。お、あった。
ついでにパジャマも見つけたので、借りることにした。
パジャマを着こんでバスローブを持ち、一番奥のリビングルームに移動する。
窓際に置かれた大きなソファは座り心地も良い。
眠るには困らないだろう。
さすがに同じベッドで寝るのは躊躇われた。
アイツのことだ。
驚いて恐縮して縮こまって―とにかく面倒なことになことになるのは目に見えている。
本当に何かあったのなら別だろうが、何も無いのにそんな面倒は勘弁して欲しい。
高層からの夜景が自慢であろうこのホテルらしく、正面の2面の壁は大きな窓が設けられている。
椿の寝ているベッドの向こうも、一面の夜景だった。
窓の向こうには、キラキラとした宝石のような光が広がる様に光っていたが、俺の目に飛び込んできたのはその遥か上にぽつりと輝く小さな星だった。
その輝きは椿を思わせた。
いいよ、椿。
お前そのままで。
不器用でマイペースで、フットボールが好きで、上手くなりたいってそればっかで、諦めが悪くて。
そんなお前の毎日の積み重ねが皆を期待させる力を生み出してるってことを、俺は知ってる。
普段シマラなくったって、ピッチの中に居るお前は見ている人間に何かやってくれるんじゃないかって期待させてくれる。
ゲームの行方なんて誰も分からないし、90分の中で何が起こるかなんて絶対に誰も知りやしない。
そんな暗闇の中で小さく光る星に希望を見つけて、スタジアムに足を運んだサポーターやファンは期待を胸にスタジアムを沸かすんだ。
何を躊躇してるのか分かんないけど、お前って俺のこと好きなんだろう?
諦めが悪いのも、それでいてチキンなのも知ってるから、待っててやるよ。
世界のどこに居たって、フットボールをやっていたら繋がって居られるんだ。
俺もお前もフットボールから離れられるわけがない。
先は長いよ。
クッションを枕に、バスローブを毛布代わりにして、俺はソファに体を横たえた。
明日の朝椿のヤツがどんな顔するのか楽しみだ。
俺は愉快な気分でゆっくりと瞼を閉じた。
<終>
土曜日の街は週末のゲームを待ち望む人でごった返していた。
トラムには人があふれ、しかも揃いも揃ってビールをあらゆるポケットに仕込んでいる。
さすがビールの国だ。
肩を並べ陽気に笑い歌う彼らを見ていると、こっちまで楽しくなる。
多少うるさいのは愛嬌だ。
そんな彼らに倣って、俺もビールを片手にスタジアムに入った。
隅田川スタジアムの何倍もあるそこが、試合の開始時刻には満員になる。
ゲームと言えば両チームの攻撃は激しく見応えがあるものの、なかなかゴールに結びつかない。
後半に入ってもその流れは変わらなかったが、体も疲労してきたのだろう。
攻撃が少しだけ単調になってきた部分が増えてきたな。
後半も20分を過ぎようとしたころ、ようやくベンチが動いた。
脇でストレッチしていた椿は立ち上がると監督とコートが何か指示を受け、タッチラインの脇で試合が止まるタイミングを待っている。
しばらくすると相手チームの放ったシュートがゴールポストを大きく超えた。
出番だ。
「ツバキ!ツバキ!」
椿の登場に、スタジアムが沸いた。
キャプテンマークを巻いていたボランチからマークを受け取り、交代してピッチに走り入る。
そういや、作戦で椿にキャプテンマークつけさせたことあったよな。
いまのアイツは当然に腕に巻き、チームメートに駆け寄り、何かを短くを伝えた。
その横顔に、布切れ一枚にビビってたかつての面影はない。
ピッと短く鳴った笛の音に続いてゴールキーパーが大きくボールを蹴り、ゲームは再開した。
「食った食ったぁー」
「……」
店の外はビル街のネオンで昼間のように明るい。
むしろ昼間より明るいんじゃないか、銀座って街は。
白いネオンが目に刺さりそうだ。
ついでに椿の恨めしそうな視線も背中に突き刺さった。
「あのなあー、飯代のこと位でそんな目で見るの止めようぜー。飯が旨かった。それでいいだろ」
「だって俺が招待したのに…」
上目づかいに椿は俺を見た。
いいじゃないか、金を誰が出そうが。
大体、俺の方が年長者だし、元上司だろ。
ここでの食事代を出して困らないほどには稼いでいるわけだしさ。
椿のヤツがどれだけ報酬を受けているにしても、だ。
なのに椿は未だにブツブツ言っている。
面倒くさいヤツだな。
「じゃあ、もう一杯飲ませろよ。お前の奢りでさ」
「は、はいっ」
俺の申し出に、ようやく椿は納得を示してくれた。
銀座の店なんて知らないから、とやってきたのは椿の泊っているホテルにあるバーだ。
ここならぼったくりは無いだろう。
高層階へ向かうエレベーターは音も無く俺たちをあっという間に目的地へ案内した。
ドアの向こうに広がるのは高い天井のと柔らかい照明の落ち着いた空間だった。
フロントの奥にあるロビーラウンジはバーを兼ねているらしい。
時間も遅く客はまばらだったせいか、窓際の席に案内してくれた。
きっといつもなら予約がいる感じの、特等席だな。
目の前が一面のガラスになっているせいか、夜空と天井は黒く溶け、眼下に街の光が広がっている。
座り心地の良いソファに腰掛けると、一瞬空の上に浮かんでいるような錯覚に陥りそうになった。
「監督がビール以外呑んでるの、初めて見ました」
隣に座る椿が、そんな感想を漏らす。
俺が手にしているのは、ウィスキーだ。
イギリスってスコッチが有名ですもんね、と同意を求めてきたが、残念。
俺が過ごしたことのあのは、イギリスでもイングランド地方だから、この酒とはあんまり関係ないかな。
だいたい、目に入ったのを頼んだだけだし。
グラスを傾けると透明な一固まりの氷がカランと済んだ音を立てる。
「一度サッカーを見に来てくれた時も、ビールばっかり飲んでたし」
椿が口にしているのも甘ったるいカクテルじゃ無かった。
そんなに度数が低い酒じゃないと思うけど、グラスを傾ける椿の顔色は変わっていない。
さっきの和食の店でも日本酒を開けていたな。
意外と酒に強いな。
一方前の店にビールで-といっても割と飲んだから当然だが―ほろ酔いしていた俺がそんなことを考えている前で、もう一度椿は大きくグラスを傾けた。
「その…楽しかったですか」
「なにが?」
「ええと、その。俺のいる国に来てくれた時、なんすけど…っ」
「は?」
何を言いたいのか分からず、思わず何度も聞き返してしまった。
俺が椿の国に行ったのって、もう何年も前の話だ。
今さら何を聞きたいって言うんだ。
聞き返すたびに椿のしどろもどろっぷりがひどくなっていく。
「俺、監督にわざわざあんな遠くまで来ませんか、とか誘っちゃって。よく考えたら観光もそんなに出来て無かったし。無理、とかさせたんじゃないかなって…気になってたっていうか…その…っ」
「-良かったんじゃない」
「へ…」
「だな。あれは、行って良かった。うん」
俺は真っすぐに椿を見た。
椿も俺の方を向いたので、目が合った。
構わず視線を逸らさずにいたら、椿の方がギブアップした。
「よ、良かったッス」
それだけを言うと大慌てで窓の方を向き、グラスの中の酒を勢いよく流し込んだ。
おいおい、そんな飲み方して大丈夫か。
そう思いはするけれど、俺もいい加減酔っ払って来たんだろう。
話すのも他の方向を見るのも面倒になって、俺はそのまんま椿の方を眺めてた。
あの試合の椿を見た時みたいに、目を離さなかった。
椿がゲームに参加してから、攻撃にリズムが出来始めた。
それに高い位置でボールキープできる時間が増えてきている。
だが、まだ得点には結びつかない。
時計の針は後半38分を指している。
アディショナルタイムを含めてもゲーム終了まで10分弱といったところか。
「どうするよ、椿」
何万もの人を抱え込んだスタジアムは、外の寒さとは正反対の熱に包まれている。
残りわずかとなった試合時間を前に、チラチラと時計を確認する観客も少なくない。
このまま試合が終わってしまえば、スタジアムの温度はすぐに外の気温と同じに冷えてしまうだろう。
どちらのチームも点が入る瞬間を最高に待ち望んでいる。
そして、ようやくその時がやってきた。
サイドチェンジを狙ったボールを奪い、縦にパスが送られた。
バイタルエリア付近に落ちたボールを受けた椿めがけ、相手のディフェンスが攻撃を潰そうと一瞬にして走り寄って来る。
パスを出せる味方はいない。
椿は迷わず自分でボールをキープして走りだした。
鮮やかに相手を抜き去るスピードは驚くほど速かった筈だが、不思議にその動き一つ一つは、スローモーションで見ているかのように鮮明だ。
フェイントで相手をかわす間に上がってきた味方を視界の隅に捉えた一瞬に、弾丸みたいなパスを蹴る。
それは間に居た2人のディフェンスの隙と隙をつき、ボールは味方の足にジャストミートした。
そいつが思い切り振りぬいたシュートはまっすぐにゴールポストへ飛んでいたが、上がりかけた歓声が止んだのは、ボールは強くゴールポストに当たって跳ね返ったからだ。
「まだだ」
観客席に落胆が漏れたと同時に飛び出した人影が、ジャンプで体を空中に浮かせながらボールをもう一度押し込む。
椿だった。
割れんばかりの歓声がスタジアムを揺らす。
最高の興奮に、それはもはや『声』じゃ無くなった。
ゴォッという大波になって、俺の全身を攫う。
頭の中は真っ白になった。
ただ興奮に沸いて、両隣と手を合わせ喜びを分かち合った。
プレイが再開されスタジアムの波がひいて行くと同時に、胸にポツリと熱が灯る。
なにが調子が悪いだ。
なにが一度見に来て欲しくてだ。
しかも録画の中じゃ死んだみたいに酷い顔してたうえに、思わせぶりなこと言いやがって。
なあ。
来るのに飛行機で半日もかかったんだぜ?
しかも外は無茶苦茶寒いし。
柄にもなく心配した俺がバカみたいじゃないか。
「-は、ハハッ!」
自分の発言に思わず笑いが出た。
照明も無い位グラウンドで泣きべそをかいていた椿が頭の中を過る。
そうだった。
あんなアイツはETU時代にとっくに卒業してたじゃないか。
上手くなりたい。もっとフットボールがやりたいって海外まで飛び出したような人間だった。
バカは俺だ。
帰りのトラムで隣り合わせたオッサンが、どうだ俺たちの椿は最高だろうと嬉しそうに俺の背中を叩く。
聞き取った内容は、やっぱり勘だけど。
「ああ、最高だね」
英語で答えると、オッサンはまあ飲めと、ポケットから取り出した瓶ビールを勧めてくれたから、俺は有難く瓶を頂戴した。
お世辞じゃなく、気分は最高に良かった。
試合終了間際には椿のアシストで、止めの追加点を入れることができたしな。
勢いで家に帰るまで何本ビールを開けたっけ。
俺はウィスキーを飲みながら、そんなことを思い出していた。
「ええと、あの、監督?じっと見られてると飲みづらいんですけど…」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
酔った勢いも手伝って、俺は相変わらず首を椿の方で固定したままだ。
-なあ。
あのゴールまでの瞬間に俺がどんなに胸を奮わせたか、お前は知らないだろう?
異国で見た数年前の試合を思い出して、俺の気分はスタジアムに居た時のように気分が良かった。
