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"Nonsensical thoughts that have entered my head." by Yoshida Kenko

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これ以降の新規公開する記事は、



に掲載していくこととといたします。


既に、過去に公開した記事は全て移行済みです。
こちらのアカウントを消すことはありませんが、
コメント専用となります。

上記のnoteのチェックも、
どうぞよろしくお願いします!

一応、こちらの続きです。
7年半前の旅行記はこちらからお読みになれます。

定時で職場を後にした私の手に提げるのは、
テイクアウトしたかかんの麻婆豆腐丼。
向かう先は鎌倉ゲストハウスである。
「また来ちゃいました」
へへへ、と29日の閉業を前に
チェックインを済ませる。
泊まりに来るのは1ヶ月ぶり、
その前は7年半ぶりだ。


そんな今宵の鎌倉ゲストハウスは
“たこ焼きパーティー”である。
炬燵の卓上には無数の皿。
そこに盛られた熱々のたこ焼きの上では、
かつお節が踊る。
「ソース(、マヨネーズ)、青のり、かつお節!
これだけは覚えて帰ってください!(関西弁)」
そんな事を言いながら、オーナーの夏さんは嫁入り道具(でっかいホットプレート)で、
たこ焼きをくるくるくるくると焼いていく。
スタッフだけでは手が足りず、
私達ゲストも一緒になってたこ焼きを盛りつける。
実家のようだ、と誰かが言った。

ここから旅立つ時にスタッフと交わす言葉は、
「いってきます」と「いってらっしゃい」
さようなら、ではないのが
“鎌ゲス"流の別れ方である。
この日の宿泊客は、
この宿に再訪するために仕事帰りに、
あるいは休みを取って
“鎌倉の実家"まで足を運んだ人が多かった。
この宿は2010年の開業以来、
いったいどれだけの旅人達を
家族のように迎え入れ、
送り出してきたのだろうか。


宴もたけなわとなった頃、
酩酊している夏さんが言った。
「いつか絶対にまた出会うから」
私達はその言葉に笑って頷いた。
この夜が明けると、
私達もまた、次の目的地へと旅立っていく。
そうして皆、その先々で色々なものを目にし、
経験し、世界の広さを更に知ることだろう。
そんな私達がいつかまた出会う時、
今度はいったいどんな景色が見られるのだろうか。
温かな出迎えを受け、
暖かな囲炉裏と炬燵を囲んで語り合う夜は、
ゆっくりと更けていく……。 


2022年12月29日をもって、
鎌倉ゲストハウスは幕を閉じる。
「ただいま」「おかえりなさい」
今日も新たな旅人達がやってくる。
しかし、これからも「鎌倉ゲストハウス」は、
その旅を終えることはないと、私は信じている。

2022.12.09-10 


こちらの続きです。
7年半前の旅行記はこちらからお読みになれます。

7年前の3月、3年続いた浪人を終えようとしていた若者は、大学生になる前に鎌倉へと旅に出た。
その旅が始まったのは、源氏山で遭難しかけた時か、長谷駅で江ノ電を降りて鎌倉の地を踏んだ時か、車窓から湘南の海を見た時か、藤沢駅であの濃いグリーンの小さな車体に乗り込んだ時か。
はたまた、ぎゅうぎゅうの荷物を抱えて自分の部屋を出た時か。
あの旅は、3日目の夜、渋谷の空を見上げたあの時に終えたと思っていたが、まだ続いていたようだ。
あれからずっと、私は「旅」というものに魅せられたままである。


大学生になり、何度か友人と共にキャリーケースを転がして行った「旅行」を経て、私はバッグ1つ身一つで転々と場所を移動する「旅」をするようになった。
その行き先は、徐々に海外へと移っていく。


Low Cost Carrierの最安値のエアチケットを探し、その手荷物制限に収まるように45Lのバックパックがぱんぱんになるまで、尚且つ7kg以内に荷物を詰め、まだ見ぬ世界を求めてただひたすら歩き回る。


色々な景色を見に行った。


そして数々の素晴らしいものに心を奪われた。


そんな私を新たな旅へと誘い続けてきた数々の景色の原点は、湘南の夕日だった。


「やばい」「凄い」以外の言葉を失うような何かを求めて、日本を飛び出して旅をするようになってからも、鎌倉には幾度となく足を運んだ。
それは美しい夕日を求めてのことなのか、
歴史ある神社仏閣を求めてのことなのか、
海や山といった自然を求めてのことなのか、
ここでしか食べられないものを求めてのことなのか。


学生の頃は近場で旅行気分を味わえる場所だったということ、
卒業してからは大学に進学するように私の背中を押してくれた恩師が眠る場所が鎌倉にあるということも相まって、鎌倉を訪れて宿泊することも多かったが、あれ以来鎌倉ゲストハウスからは足が遠のいていた。
その理由は例えば、人気宿ゆえに満室だったり、学割料金で1000円以上安く泊まれる宿があったり、大部屋に泊まりたくなかったり、観光地や駅に近い場所を求めていたり、とその時々で様々だ。
しかし、そうしているうちに「鎌倉ゲストハウス」は、私の中で宿の選択肢というよりも思い出の1つへと変わってしまった。
旅にハマるきっかけとなった景色を教えてくれた場所、鎌倉に訪れるとほぼ必ず食べに行く美味しいお店を教えてくれた場所、
そしてそんな良い情報を沢山知っていて鎌倉を愛している素敵なスタッフさんのいる宿。
そのうちまた泊まりに行きたい、とは思っていた。
しかしいつからか、数々の旅の記憶の中の、遠い遠い1ページへと追いやってしまっていたようだ。


旅人達は、夜遅くまで囲炉裏を囲んで語り合い、翌朝も炬燵に入りながら語り合う。
その輪の中に加わる中で、ふと思った。
鎌倉ゲストハウスが、たぶん私の旅の全ての原点だった、と。
旅をする中で、私は「出会い」を求めるようになった。
最高の景色、美味しい食事、それだけでなくその場所の社会や文化、そこに住む人々との関わり。


これまでに見たことのない新しい何かとの出会いを得られることが楽しみだった。
そうした旅の楽しみ方は、全てここ、「鎌倉ゲストハウス」で知ったのかもしれない。


朝食のベーグルに合わせて淹れた、卓上のコーヒーが冷める頃、皆さんチェックアウト時間の5分前ですよ、と声がかかる。
随分と話に夢中になっていたようだ、と旅人達は荷物をまとめ出す。
私も荷物をまとめると、宿のスタッフに一宿の礼を述べて建物の外に出る。
一晩同じ宿に泊まるという縁に導かれた旅人達は別れを済ませると、また新たな何かに導かれるように各々の目的地へと向かっていった。
さて、この後どうしようか。
空は秋晴れで心地の良い風が吹いていた。
私は暖かな日差しを浴びながら、澄んだ空気を吸い込んで考える。


とりあえず、長谷まで行こうかな。
行き先を決めると、ゆっくりと歩き出した。
スーツ姿で鎌倉を歩くのは初めてだ。
だが、こういうのも悪くはない。
2015年3月、鎌倉を訪れた若者はここで旅の面白さと出会う。そこから7年半後、再びその原点とも言える地へと足を運んだ。
幸運なことに、あれからずっと私は、「旅」というものに魅せられたままである。


こちらの続きです。
7年半前に訪れた時の記録はこちらから。
鎌倉ゲストハウスは古民家を改装して作られた宿だ。
今でこそ鎌倉には、江ノ島、長谷、鎌倉駅周辺、その他にも数多くのゲストハウスがあるが、宿泊をするにしても食事をするにしても何かと高くつく鎌倉において、最初期に生まれた安く泊まれるゲストハウス形式の宿がここであった。
冬には座敷に炬燵が出され、綺麗に整備された囲炉裏に火が灯るのが大きな特徴であり、それらは魅力の一つでもある。
ここに泊まった旅人達は炬燵や囲炉裏を囲み、それぞれが持ち寄った食材で作った鍋物や、焼き物を肴に、思い思いの話をし、親交を深める。


「遂に来たぞ、鎌倉ゲストハウス。」
建物を前にしてそんなことを一人呟き、思わず頬が緩む。

時間は19時頃、中に入ると今夜ここに泊まる客が集まり始める時間ということもあってか、少し慌ただしくしているのが伺えた。
「こんばんは!チェックインですね!」
スタッフの方がすぐに気付いて応対してくれた。
手続きを進めながら少し会話をする。
「ここに泊まられるのは初めてですか?」
いいえ、書類を書きながら答える。
「7年ぶりに、泊まりに来ました。」

2010年7月に開業した鎌倉ゲストハウスは前で述べているように、この地域で最初期にできたゲストハウスだ。ここで見習いや修行をした人々によるゲストハウスは日本各地に存在するそうである。
"そうである"というのも、この話は共に宿泊した旅人から聞いた話だからだ。
私がチェックインした時には既に何組かの客が到着していた。簡単に挨拶をしながら宿の案内を受け、荷を解くと、無事にテイクアウトすることができた麻婆豆腐の入った袋を右手に提げて居間に入った。
囲炉裏の周りに2人の男性、キッチンには2人の女性。まもなく新たに3人の女性も食材を持って居間へやってきた。いきなりその中に入っていくのが憚られた私は炬燵に入って食事をする。
すると、囲炉裏にいた男性から話しかけられた。
「その麻婆豆腐、かかんですよね。私も食べました。美味しいですよね!」


鎌倉ゲストハウスに多くの旅人が集まり、その多くを魅了する理由はここにある。
炬燵や囲炉裏を囲み、皆が肴を持ち寄り、それをつまみながら話を始める。
退職後に日本全国を巡る、やけに各地の学校に詳しい男性、
ゲストハウスをこよなく愛し、休みとなれば全国の宿を転々と回っている男性、
出版関係の仕事仲間で次に書く絵本の題材に、と鎌倉を観光しにやってきた三人組の女性達、
閉業してしまう鎌倉ゲストハウスのことを惜しみ、最近頻繁に泊まりに来ているという女性、
スクーターに乗り、その身一つで転々とホテル暮らしすることを楽しんでいる女性。
それぞれの過ごす日常では、巡り合うことのない人々は、この場所でそれぞれの共通点を見つけ、今宵も話は拡がっていく。


鎌倉でゆかりのある場所、自分が住んでいる場所、住んでいた場所、仕事、大切なもの、理想、様々なものが、鎌倉ゲストハウスの囲炉裏と炬燵を中心にして交わり合う。
そうして多種多様な点を結びつけ、縁を紡いでいく。
それが鎌倉ゲストハウスという場所であり、ここの大きな魅力であった。
スタッフが中心となって、決して押し付けがましくなくゲストを会話の輪に引き入れ、またそうした人々との関わり合いが大きな魅力となっている宿。
建物や部屋、ホストやスタッフだけでなく、そこに泊まるゲスト一人一人も魅力の1つと化す。
そんな類稀な宿である「鎌倉ゲストハウス」は、2022年12月29日をもって、幕を閉じる。


この7年半後の旅行記です。

2015年3月、あの夜は雨が降っていた。
日はとっくに沈んでいて、既にあたりは真っ暗だった。
傘をさして歩いた、湘南深沢駅から鎌倉ゲストハウスへの道のりはその天気も相まって随分と暗く寂しい場所だと思ったものだ。
右手には幅の狭い川が流れていて、街灯もまばらで、当時ネット環境を絶っていた私は、この道で合っているのか、という不安な気持ちを胸に歩みを進めたことを思い出した。

2022年11月4日、先月宿泊した長谷のゲストハウスのホストに言われた言葉が衝撃的で、私は半ば勢いで鎌倉行きを決めた。
「鎌倉ゲストハウスさんね、今年で閉めちゃうんだってね」
鎌倉ゲストハウスが無くなる?
嘘でしょ?と口を突いて出た言葉と共に、やっぱりかという気持ちもしていた。
新型コロナウイルスの流行による観光客減少に伴い、経営状況が悪化していたようで、クラウドファウンディングも行うなど、苦しい状況にあったのは伺い知ることができた。
しかし、"あの"鎌ゲスが無くなる、というのはやはり衝撃的で、哀しく、寂しい事実であった。
鎌倉ゲストハウスは、私が旅を好きになったきっかけとなった場所だったからである。
教えてもらって食べに行ったキャラウェイのカレー、見に行った湘南の夕日、その素晴らしさに出会って、そこで味わったワクワクした気持ちが、当時21歳、3年遅れで大学生となる私を旅に連れ出した。

あれから色んな所に行った。
キャリーケースを転がして行く「旅行」ではなく、私はバッグ一つに荷物を詰め込んで、その身一つで自由気ままに様々な地を巡る「旅」を好んだ。


国内の主要な観光地をいくつか見て回ると、あの鎌倉旅から2年と経たずに今度は海外にも一人で行くようになった。
もっとも、金のない貧乏学生の上、移動費や宿泊費を極端なくらいケチった旅をすることをこよなく愛した私は、もっぱら東南アジアをふらふらすることが殆どだったわけであるが。
だが、その東南アジアの、特にタイでの、景色だけでなく人との様々な出会いにより私は旅の深みへとハマっていくこととなった。


あれから7年と半年、早いものである。
とにかく、そうした様々な旅を経験した後に、私はふたたび、鎌倉ゲストハウスを訪れたのである。

あの頃、様々な不安と僅かな希望を持ち、隠しきれない深い闇をその内面にも外見にも湛えた根暗なクソガキは、もう社会人になっていた。
定時とほぼ同時にパソコンの電源を落とし、細かな作業と片付けを済ませた私は、机上のホワイトボードにでかでかと書きなぐって職場を後にした。

「「11/4 定時で帰ります!!」」

この日、私には定時で帰らなければならない理由があった。
一刻も早くチェックインを済ませて宿の雰囲気を味わいたかったから
ではなく、
少し早く鎌倉に着くことで少しでも旅気分を味わいたかったから、
でもなく、
かかんの麻婆豆腐を夕食に食べたかったからである。


かかんは鎌倉の御成町に本店を構え、梶原と渋谷の保土ヶ谷にも展開している、麻婆豆腐の専門店である。
丁寧に作り込まれた本格的な麻婆豆腐は非常に満足感を得られる逸品で、鎌倉に来たからには私が訪れたい店の一つだ。
ここは以前宿泊した、常磐にあるゲストハウスのスタッフに勧められた店で、何度か通っている。これまでこの味を超える麻婆豆腐を出す店には出会ったことがない。
その梶原店が、鎌倉ゲストハウスのすぐ側にあるのである。ならばここで夕食に食べない、という選択肢など無いではないか。
しかし、現在諸事情により18時30分には店を閉めてしまう。
その味を楽しみたいがために定時退勤をした私は、18時を過ぎた頃大船駅に着いた。

横須賀線と東海道線、そして湘南モノレールが乗り入れるターミナル駅が大船駅である。
小田急と江ノ電、東海道線が乗り入れる隣の藤沢駅と共に、鎌倉への玄関口のような位置付けの駅だ。
数分歩き、湘南モノレールの大船駅の改札を前にした時に、私はどこか懐かしいと感じた。
この景色は見たことがある、そう思った。


大船駅から吊り下げ式の湘南モノレールに乗ること約5分。3つ目の駅が湘南深沢駅である。
ここでは湘南江の島駅行きと大船駅行きの車両がホームを挟んですれ違う。
湘南江の島駅行きの車掌がホーム到着後走って出口への階段の前に行き、切符を回収する。
そんな光景が繰り広げられるのはこの駅の1つの特徴でもある。
幾度となく鎌倉を訪れていた筈だったが、私がこの光景を目にするのは2度目だった。
ホームから駅の外へ出るための階段へ向かう。


2015年3月、あの夜は雨が降っていた。
日はとうに沈んでいて、初めてのひとり旅、初めてのゲストハウスへの宿泊という不安な気持ちを胸に、バッグから取り出した小さなモスグリーンの折りたたみ傘をさして歩いた。
あの時に歩いた、駅からの道は暗く寂しい場所という印象だった。右手には幅の狭い川が流れ、左手には民家や学校があり、人通りは少なく物静かな場所で、その雰囲気は私をどこか不安にさせた。


あれから、7年と半年が経った。
物静かな場所だと思っていたこの道は、川とそれに沿って立ち並ぶ民家や商店を隔てて車の通りが多い神奈川県道32号線が走っており、その川沿いは遊歩道のように整備されている箇所もあった。
確かに街灯も少なく暗いという印象も受けるが、道を見失うほどではない。
そもそも、車の音など、人工的な物音が聞こえるだけまだ安心できるじゃないか。


————鎌倉ゲストハウスの囲炉裏に灯る火を囲み、余市蒸留所限定のウヰスキーを嘗めながら、そんな感想を述べる。すると、そのウヰスキーを私に勧めてくれた、ここへ来る前に北海道を旅してきたという男性が微笑んで言った。
「その話を聞くだけでどんな旅をしてきたのかが分かりますね」
そう、あれから7年と半年が経った。思えば遠くへ来たもんだ。
夜空に流れる雲の切れ間からは月が覗いていた。
もうすぐ満月である。



昨日見た夕日が幻だったかのように、次の日の夜に私は雨が降る夜の渋谷にいた。
夜9時のスクランブル交差点、進むことを拒むかのように、パラパラと雨が降っている。
都会の喧騒の中、今回の小さな旅を思い出す。
耳の奥には、まだ波の音が響いているような気がした。

3日目の鎌倉、今日が最終日だ。
朝、私に鎌倉の夕日のことを教えてくれたスタッフの女性に夕日のことを報告する。
最高でした、という私の言葉に、喜んでくれて何よりです、と彼女は満足そうにしていた。
個室ではないし、食事やサービスが充実したような宿泊施設でもない。
ただ、ホテルよりも格段に安く、その日の夜に泊まる寝床と、新たな出会いを提供してくれる場所がゲストハウスだ。
その初めての宿泊の体験が、そして初めての一人旅の宿が、ここで良かった。
心からそう思える、素敵な場所だった。


朝8時、長谷行きのバスに乗り、そこから鎌倉へ向かう。
昨日、お参りをしなかった鶴岡八幡宮へ向かい、これまでの旅の無事のお礼と、これからも気を付けて旅を続けます、という報告をする。


鶴岡八幡宮には源頼朝公が祀られている。
約800年前、ここが日本の中心であった。
日本で初めて、天皇を中心とした貴族社会から政治機能を奪い、武家中心の社会へと舵を切ったのが、源頼朝だ。
彼が政治機能の中心である「幕府」を置いたのが、ここ鎌倉である。
武士らしく、この町は自然の要塞と化している。
南は海に面しており、残りの三方は急な山に囲まれている。
山側の場所によっては今もなお残る、この要塞の数少ない出入口だった切通しは、硬い岩盤を細く切り崩したような道で、その左右は高い崖になっており、有事には上方から敵に攻撃が可能な作りになっている。


海側から上陸する場合も、奥へ行くにしたがって、つまり政治の中心である大倉御所へ近付くにしたがって、道が狭くなっており、攻める側はどれだけ大群で来ようとも、その数の利を生かせない作りになっている。
ここ鎌倉は、まさに難攻不落の町であっただろう。
経済・商業面においても、海が近いという地の利を生かして、海運に取り組んだ。
その港跡が材木座に残っている。
ここは、かつて日本の中心であったのだ。
そして、この街を開いたのが源頼朝なのである。
彼を祀る鶴岡八幡宮に手を合わせ、この場所を後にする。


この後、腰越、江の島と廻る。
幸運なことに今日の天気も良好で、全体に薄い雲がかかっているようだが、青空だった。


旅の終わりが近づいてくるのを実感し始める、その日の夕方、私は江の島にいた。
辺津宮、中津宮、奥津宮とお参りを済ませ、私は江の島の最奥である稚児が淵で、三浦半島の向こう側へ沈んでいこうとする夕日を眺めていた。
このまま、ずっと見ていたい気分だったが、私はこの場所から離れ、片瀬江ノ島駅からある場所へ出発した。


これは私にとっての、もう一つの冒険であった。

夜の6時ごろ、私は渋谷にいた。
今年の春より、大学生として新生活を始める私は、その前にどうしても会っておきたい人がいた。
高校生の頃、その人は私の憧れであり、浪人生の頃は、彼が受験生に向けて発し続けるメッセージが心の支えだった。
そして、その人の存在が、私が恋焦がれ続けた、ある大学を目指すきっかけであった。
多浪の末に不合格だった際に、唯一合格していた大学に入学するか否か、その人にも意見を求めていた。
時間の都合が合わず、直接の意見を受けることはできなかったが、志望校を諦め、その大学に入学することを報告するために、私は渋谷に来た。
道玄坂の喫茶室で数年ぶりに会う彼に、春からの進路を報告する。
彼は私にこう助言した。
「大学では、絶対に同じ熱意を持つ仲間を作れ。共に頑張れる仲間を作れ。」
その言葉通り、後に私は共に刺激しあえる仲間とともに大学生活を送ることとなる。

彼と別れ、外に出ると、パラパラと雨が降っていた。
都会の喧騒を歩きながら、今回の小さな旅を思い出す。
夜9時のスクランブル交差点、信号は青に変わった。
これから始まるんだ。そうして私は家へ帰る電車のホームへ向かった。


こちらの続きです。

2日目の鎌倉は快晴である。
朝、予定通りの時間に宿で借りた自転車のペダルに足を掛ける。

前日はあいにくの空模様であったが、それが功を奏してか、素晴らしく、幻想的な光景に出会えた幸運があった。
北鎌倉駅から横須賀線で1駅、大船駅で夕食を済ませ、宿へ向かう。
私が予約していた宿は「ゲストハウス」という形態のものだ。
個室ではないし、食事やサービスが充実したような宿泊施設でもない。
ただ、ホテルよりも格段に安く、その日の夜に泊まる寝床と、新たな出会いを提供してくれる場所がゲストハウスだ。


これまで、家族旅行や修学旅行くらいしか旅の経験のない私は、もちろんそういった所に泊まることなど初めてである。
志望校に合格できず、年齢だけ重ねた気持ちでコンプレックスの塊のようだった私は、見ず知らずの他人と関わる度胸などなく、ここに泊まっても寝るだけで済ますつもりだった。
シャワーを浴びて、パソコンを借りようとすると、そこで働く一人のスタッフの女性に声をかけられた。
彼女はゲストハウスという形態の宿泊施設が大好きで、京都の海沿いの街からはるばる鎌倉まで出てきて、ここで住み込みで働いているのだという。
ここで経験を積んでから新たに自分のゲストハウスを作ることが夢なのだ、という話をしてくれた。
彼女の持つ話しかけやすい雰囲気に、聞き上手さも相まって、私も自分の身の上話をしていた。
そこから、何人かの旅人と話をしていると、鎌倉のおすすめの場所はどこかという話になった。
この時に教えてもらった、カレーハウスキャラウェイと翌日に行くことになる場所は、今の私にとって、鎌倉に訪れた際には欠かすことのできない店と、旅の楽しさに気づくことができる場所となる。


前日の雨が嘘かのような清々しい天気の中、私は北鎌倉へと続く坂道を自転車をこいで上る。
ずっと緩やかに続いていた坂道が、蛇行を繰り返す急な坂道へと変わる。
息を切らして、身体を熱くさせながらペダルを踏み続ける。
そして漸く頂点に達した時、湘南の海が見えた。
やはり、鎌倉という街は山と海に囲まれた場所なのだと実感する。
ここからは下り坂となる。
気持ちの良い風を受けて私は自転車で駆け抜ける。
北鎌倉が近づき、昨日神に祈りながら踏破した源氏山が近づいてきた時、思わず自転車を止めた。
前日の雨によるものか、鎌倉山の森には霧がかかっていた。
そして、そこに朝日が降り注ぎ木々の隙間から漏れた光の柱、光芒が立っていた。
今日は朝から幸先がいい。
そう感じられるような光景だった。


北鎌倉は源氏山と六国見山に挟まれた小さな街だ。
関東を代表する一大観光地である鎌倉の中心たる鎌倉駅と、JR3線が入線するターミナル駅である大船駅に挟まれながらも、独特の清閑さと厳かさを保っている。
それも、鎌倉五山である円覚寺、浄智寺、建長寺を始めとした歴史ある寺社が多いことが、関係しているのかもしれない。


どの寺社も、大きく歴史があるためか、観光客が集まっている。
しかし、参道から1本外れれば、氏子用の小さな参道や併設の保育園へ通う親子の姿が見られる。
今でも、ここに住む人々に寄り添う寺社であることを伺い知ることができた。


私はそういった代表的な寺社を巡りながら、鎌倉駅へと坂を下っていく。
だが、2日目も予定は大きく崩れていた。
私は昼を食べることもなく、16時前頃に漸く鶴岡八幡宮に到着する。
ここでかなり遅めの昼食をとるために、昨夜勧められたカレーハウスキャラウェイへ行く。


鶴岡八幡宮には横浜国立大学附属幼稚園が併設されているが、ここはかつて大学の学生寮だったという。
お腹をすかせた学生達の胃袋を満足させるために、安く美味しいカレーを提供してきた、キャラウェイ。
その考え方は今でも変わらず、普通盛りでありながら、これでもかというくらいの量のライスとカレー、ミニサラダのセットで供される。


ここのカレーは所謂欧風カレーと呼ばれるもので、いくつものスパイスを組み合わせて作られたカレーソースには、肉がトロトロになるまで溶け込んでいる。
確かな味わいのあるカレーライスはかつての学生達や地元の人々の胃袋だけでなく、舌も満足させてきたに違いない。


朝から自転車を漕ぎ続け、山に作られた寺を登り下りしたことで、私は空腹だった。
そのためか、一般的な普通盛りの2倍ほどある、''キャラウェイなりの普通盛りのカレー''をぺろりと平らげた。
そして、昨夜、ゲストハウスの女性スタッフに勧められた、ある場所へと向かう。

「鎌倉に来たなら絶対に夕日を見ないとダメですよ!」
昨夜まで振り続けた雨は、朝には止んでいたとはいえ、その日の天気は快晴とまでは言い難かった。
朝、霞が出ていたように、湘南の海も遠くの方は霞んで見え、富士山はじっと見ないと分からないほどだった。
あまり期待はせずに、湘南の海へと自転車を走らせる。
鎌倉の若草大路を南へ、由比ヶ浜に出る。
かなり日は傾いてきているとはいえ、まだ日没までは余裕がありそうだ。
由比ヶ浜から海岸線を西へ走る。

3月中旬、春が近づいているとはいえ、まだ寒い季節だが、自転車を漕ぎ続けて汗ばんだ私には、海風が心地よく感じる。
このしょっぱい磯の香りを嗅いだのは何年ぶりだろうか。
金色に輝く海を横に、自転車を立ち漕ぎしながら、海岸線を走る。


「この稲村ヶ崎という場所が夕日のスポットなんですよ!もしも明日天気が良かったら、行ってみてください!」
由比ヶ浜から長谷、坂ノ下と来ると山が影となって流石に日が隠れる。
まずい、間に合うだろうか。そう思いながら稲村ヶ崎へと急ぐ。
鎌倉海浜公園の駐車場前のカーブを曲がると、崖を切り開いたような道と、小さな坂道が見える。
その坂道を登りきった時、下り坂の向こうに再び海が見えた。
そこが稲村ヶ崎だ。


稲村ヶ崎は鎌倉から江ノ島にかけての湘南の海岸において、海側へ少し出っ張った岬である。
そのため、ここは夕日を見るのに適した場所として有名である。
とはいえ、なぜここがこんなにも持て囃されるのか。
大きな理由が2つある。


その理由の1つは江ノ島だ。
ずっと続く海岸線、静かに波打つ湘南の海、その向こうに浮かぶ江ノ島。
この景色を夕日と共に拝むことができる。
そして、もう1つの理由。
それを見た時に私はこの場所の景色に心を奪われたのだ。
海の向こう、江ノ島を超え、伊豆半島の更に向こうに、富士山が見えた。
朝見たときには見えなかった富士山は、夕日が沈むにつれ、その影を次第に濃くしていた。
私が幼稚園児だった頃、幼稚園の屋上から見える雪を冠した富士山を無意識に絵に描いて以来、その姿に心を奪われていたのかもしれない。
しかし、徐々に高いビルが立つにつれて、その姿を見ることは難しくなってしまった。
それでも、朝の小田急線のホームから富士山が見えた時などはその僅かな姿にも心を踊らせたものだ。
その富士山が、こんなにも大きく、はっきりと見えていた。


始まりは母の一言からだった。
「あんた、一人で旅でもしてきたら」

2015年3月、三浪の末、志望校に落ちた。
そのことを引き摺っていた私に母がその言葉をかけた。

それも良いかもしれない。
長らく旅行などしていなかったが、ずっと京都に行きたい、そこに住みたいと高校生の頃から考えていた。
しかし、浪人生をしながら働いていたとはいえ、そこでの稼ぎの大半は受験の費用に費やしていて、残りの貯金額は心許なかった。
京都にはいけない。どうしようか。
そこで思いついたのが、京都と同じく古都である、鎌倉だった。
鎌倉ならば、私の家から1時間程で行くことができる。
こうして始まった、鎌倉への小さな一人旅は、今の私にとっては非常に大きな意味を持つものとなった。

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2015年3月15日の朝、天気はあいにくの曇り空。
旅行かばんとしては不釣り合いにも思う、派手なボストンバッグに着替えや日用品などを無理やり詰め込んで、私は家を出た。
この旅行に当たって、私は入念な計画を立てた。
その時、私は携帯電話の契約を解除していた。
厳密に言えば、通話はできるがネットには繋げられない契約にしていた。
三浪目の受験をするにあたって、自分で決めたことだ。
誘惑を絶とうとする意味合いがあった。
そのため、旅先でネットの情報に頼ることはできない。
万全には万全を期すつもりで、何時の電車に乗り、何分歩いてどこへ行き、そこに何分滞在するかまでを記載した、旅のしおりを持参しての旅だった。
まるで小学生みたいだ。

1日目は、長谷で観音像や大仏を見た後、源氏山のハイキングコースへ足を踏み入れた。
ハイキングコースとはいえ、そこそこしっかりとした山道で、受験で鈍った身体にはキツかった。
だが、久しぶりに体感する自然の空気に心は踊っていた。
地元では聞くことのないような鳥や動物の鳴き声を聞きながら歩みを進める。


都会からそう遠くない鎌倉で、ここまでの自然があることに感動もしていた。
これは私の悪い癖でもあるが、旅先では沢山の物を見ようとする。


この旅ではそれが遺憾なく発揮され、度々ハイキングコースから外れて、銭洗弁天や佐助稲荷神社などに寄り道した。


そのため、当初の計画からは大幅に遅れが生じては、早足でハイキングコースを駆けるということを繰り返していた。
だが、そうしているうちに、運の悪いことに雨が降り出した。


ハイキングコースとはいえ、ここは山道である。
そして、私の靴は履き古したスニーカーである。
靴底のグリップは弱っていて、雨に濡れた土や木の上では滑る。
足を滑らすとそこそこ危険な様子の細い山道を内心ではヒヤヒヤしながら進んだ。
辺りも暗くなってきた。
もちろん街灯などはどこにも無い。
「すみません、源氏山で遭難してしまって、自分がどこにいるか分からないんです」
そんな間抜けな119番通報だけはどうしても避けたかった。
「それ、鎌倉の話だよね!?」
この後出会う宿のスタッフの女性には、そう笑われたが、鎌倉の話である。
本気で神に祈りながら山道を進んだ。


そうしているうちに、やっとこさ平らな道が続くようになり、道幅の広い緩やかな下り坂が現れ始め、コンクリートの道路が見えてきたときには漸く安心できた。
北鎌倉に辿り着いたときには、辺りは薄暗くなっていた。


北鎌倉は鎌倉駅から横須賀線で1駅。
鎌倉五山に数えられる円覚寺や建長寺、竹林で有名な明月院に程近く、ここも関東の一大観光地、鎌倉を構成する場所の一つである。
とはいえ、商店街などが広がる場所ではなく、寺の閉門時間も過ぎれば人通りは疎らで、完全な住宅街と化す。
私がここに辿り着いたときには観光客など皆無で、雨が降っていることもあり物音はなく、鎌倉山を構成する木々の葉に当たる雨音だけが響いていた。
その雨の影響もあってか、空を仰ぐと薄霧が出ているかのようだった。
源氏山ハイキングコースの終点であり、北鎌倉側の起点が見えてきた浄智寺である。


浄智寺は静かに、そして確りとそこに存在していた。
山門へと続く階段の手前の、俗世との結界のように作られた綺麗な水を湛えた小さな池には、小さな石組みの橋がかけられていた。
その橋にもまた青々とした若竹の結界がかけられ、まるで何者の聖域への侵入も拒むようだった。
雨が降っていた。遠くに見える山門には霧がかかっていた。
薄いまどろみの中に、時が止まったかのように、浄智寺の山門は確かにそこにあった。
辺りには僅かな雨音と、鎌倉山が育む水を湛える小さな池の水音だけが響いている。
人も動物の気配すらも感じない。
ここには、もう自分しか存在していないのではないか、そんな思いをするような場所だった。
だが、暫くすると、私の後方から自動車の音がする。
宿へ、急がねば。私は北鎌倉駅へと歩を進める。


the GazettEには高校1年生のときに出会った。


当時も今も、私はX JAPANが好きであり、私にとっての音楽はX JAPANから始まったので、the GazettEの音楽は幾分か安っぽく聴こえた。


今はそうは思わないが当時の私にとっては、

どれだけ激しいか、どれだけ速いか、どれだけ音の数が多いか、どれだけそのバンドの生き様が格好いいか、それが大事だったのである。


だから、初めて出会った時には聴く気になれなかった。
しかし、V-Rock Festival 09に出演した時の映像を見て、初めてBefore I Decayは良いと思った。
その曲は、激しく、速く、カッコ良かったのである。



最初はそのライブを録った、音質も映像の画質も最悪なVHSで、何度も何度も聴いた。
その後、YouTubeの、これもまた音質が悪い、違法アップロードされたMVをいくつか見るようになった。


ある時、アルバムを通して聞いてみた。
DISORDER以前のへなちょこボイスはあまり好きになれなかったので、NILとStacked Rubbishを聴いた。よく分からないが、程無くして何となくthe GazettEを聴くようになった。
そして、思ったのである。
あぁこのバンド、「カッコ良い」だな、と。
ロックバンドはカッコよくなければロックバンドではない。
私にとってのその定義を、the GazettEは満たしていたことに気付いたのだ。

未成年という曲がある。
歌詞のある一部分が、自殺を助長しているなどと言われたこともあるが、私はこの歌詞が好きだ。
このバンドは、ボーカルであるルキが全ての曲の詞を書いている。
このバンドの初期の歌詞は、彼本人も言うように長く、メッセージ性が強すぎるものが多い。
私にしてみれば、繰り返しもないあの長い歌詞をよく忘れもせずに歌いきれるものだ、と感心する。
その長く、メッセージ性が強すぎる曲の一つが、この未成年だ。

未成年という曲は、その曲からも察せられるように、恐らくはティーンネイジャーの多い、彼らのファンに向けて書いたものであろう。


自分とは何者か、迷うことの多い未成年は、時に自らの格好を派手に着飾り、時に周りに攻撃的になり、時に大切な人すらも傷つける。そして、それが「自由」なのだと信じている。
でも、そうしてばかりではもっと自分を見失ってしまう。一度立ち止まって一息ついてみると、自分の周りには自分を見ていてくれる、親や仲間たちがいてくれる。
素晴らしき家族や仲間をもった、この最高の日々を実は持っていたということに気づけたなら、自分の、この小さなプライドを捨ててでも、たとえ痛みが伴ってでも、本当の「自由」を手に入れるために、飛び出してみたい。

最終段なんてまさにヤンキーっぽくて、青い歌だななんて思えるのだが、26歳の今、当時36歳のルキが歌っている未成年を聴いた時に、これは今の私にも響くものがあるということに気づいた。

「自由」が欲しい。
それを求めて、保持している気になっている私のプライドなんて、所詮逃げるための口実に過ぎないのだ。
本当の「自由」が欲しいなら、この小さなプライドでできた翼が千切れることを恐れずに、大きな空へ飛び立つしかないのだ。
きっと、そうして見ないと、私が見てみたい景色なんて見ることはできない。
そう、気付かされた。

今の仕事は長く続けるものではない。
そう考えていることは別に問題ではないだろう。
だが、それを選ぶのは逃げ道としてではない。
世界を見てみたい。世界中を、この目で見てみたい。
だが、それを逃げ道として進むべきではないのだ。

26歳。何とかかんとか“自分なりのステージ”に立つようになった私は、「未成年」の歌詞にあるメッセージを、誰かに向けて歌う存在になってしまったのだと思っていた。

そう、年齢というルールに思い込まされていた。
しかし、私は今でも「未成年」を歌われる側なのだ。

なぜなら、私は今でも「自由」を求めて足掻き続けているからだ。
そして、この曲を節目節目に歌うルキもまた、きっと「未成年」を歌いながらも、その歌詞を噛み締めているのだ。

なぜなら、彼らthe GazettEは今でもずっと、「自由」を求め続けているように思えてならないからである。
私よりも10年以上先を生きる、カッコいい先人であるthe GazettEが、今でも未成年を歌い続けていることは、私にとっての救いである。
彼らは今でも尚、「自由」を求めて足掻き続けているのだと知ることができるから。
だから私も、飛び立った先が落下点だとしても、そこには「自由」があるのだと信じて、走り続けてみようと思う。



かつて、the GazettEはツアータイトルや節目のライブに「Nameless Liberty」という名を掲げていた。「名前のない自由」すなわち、人それぞれの「自由」。
2010年の東京ドーム公演を境に、この名を掲げる事はなくなったが、いつかまた使ってくれるときは来るだろうか。
もしその時が来たなら、そこに集まる人々の、それぞれの自由の中に、私もまた、尚も持ち続ける「Nameless Liberty」を胸に秘め、加わってみたいと思う。