「開戦前夜」の狂気と正義 | 平野幸夫のブログ

平野幸夫のブログ

ギリシャ語を語源とする「クロニクル」という
言葉があります。年代記、編年史とも訳されま
す。2014年からの独自の編年記として綴りま
す。

 







スクリーン全編に忍び寄る戦争の
影。それが今の時代に重なって震
えがくる。ベネチア国際映画祭で
監督賞を受賞した「スパイの妻」
は国家機密を知った夫婦の告発の
物語だが、台詞回しはまるで舞台
を観ているような感覚にさせ、極
上のエンターティメント性にもあ
ふれる。開戦前夜の神戸の街を見
事に再現したフィルムワークにも
最大の賛辞を送りたい。コロナの
感染拡大で長く映画館に行けず、
意を決して出かけたのだが、見終
わった後も長く余韻が残るのは、
今に通じる時代や政治の空気の凶
暴さに立ち向かう強いメッセージ
性があるからだろう。近年ベスト
1の傑作である。


神戸の裕福な貿易商の妻聡子を演
じた蒼井優の際立つ美しさとその
変貌ぶりに終始目が離せない。相
手役の高橋一生はヒユーマニズム
あふれる貿易商優作を気高く演じ
る。しかし、町には憲兵たちの靴
音が高まり不穏な空気が覆う。


聡子は当初「アメリカが日本の敵
になるのですか」と無邪気に問い
かけていた。そんな中、憲兵隊本
部の分隊長になった幼馴染の泰治
役の東出昌大が優作の言動を不信
を募らせつけ狙う。優作が国家反
逆の疑いのある言動を見せ始めて
から酷薄な振る舞いに出る。


夫の秘密を知ってからの聡子の変
化がこの映画の最大のテーマ性で
もある。「女の目覚めと覚悟」と
も言うべきか。幼さとしたたかさ
を備えなければ演じられない役だ
。この二面性を持つ蒼井優という
女優なしでは、この作品は成り立
たなかったかもしれない。蒼井優
は毎日新聞のインタビューに「自
分の行動で国の未来が変わり得る
ような役だった。その重みを強く
感じ、演じていてつらかった」と
振り返った。それだけ主役になり
きっていたということだろう。大
学時代、授業を聴講したことのあ
る映画評論家の蓮實重彦さんは「
聡子の変貌に世界は救われる」と
朝日新聞に寄稿していた。


ほぼ全編神戸ロケで仕上げたとい
い、まだ豊かだった人々の生活と
風景が8Kでリアルに映し出され
、見る人をその世界に引き込む。
エンドロールでNHKの名が流さ
れると、撮影技術の高さに納得で
きた。特にうれしかったのは、夫
婦の住む洋館が、以前「ひょうご
へりテージ」という新聞連載で取
材した「旧グッデンハイム邸」を
使っていたことだ。神戸・塩屋の
海を見下ろす高台に立つこのコロ
ニアル様式の洋館は取り壊される
寸前だったのを、ステンドグラス
作家の女性が私財をなげうって購
入、今は一般開放されている。


神戸出身の黒沢清監督は「今まで
使っていたような生活感のある洋
館は、日本全国であそこしかない
」(神戸新聞)で絶賛した。また
この洋館の存在を世に広く知らし
めてくれ、わが事のよう喜ばしく
なった。


ミステリー性も豊かで、最後まで
ノンスットップの面白さがある。
ラストは「希望と再生」を漂わす
。上映館がもっと増えてよい。ア
ニメ「鬼滅の刃」ブームに席捲さ
れるばかりでは、情けない。きょ
う21日は「国際反戦デー」。若い
人に「こんな上質の映画を見逃し
ては損だよ」と叫んでみたくなっ
た。

          【2020・10・21】


(写真は「スパイの妻」のポスタ


ー)