私の人生はラッキーなことが多い。

小学6年の時、各学年から一人ずつ集めた6人でオリエンテーリングをする大会があった。
私は6年生だったので当然リーダーだ。
そのオリエンテーリングは、一番最速でゴールしたチームが優勝になるわけではなく、
全チームのゴールタイムの平均値に1番近いチームが優勝となる少し特殊なルールで行われた。

同級生の仲間たちは、しきりに周りのチームの動向を探り、早すぎず遅すぎずに注意を払いながら慎重に進めていた。
一方私はというと、幼少期から父の会社の方々とスキー旅行に行ったり、物心ついた頃には始めていた水泳教室でも年上ばかりに囲まれていた為、
年下の扱いに慣れておらず、「引っ張っていく」気質をあまり持ち合わせていなかったので、
優勝することには固執せず、なるべくみんなで楽しめる事だけを念頭に、
時に無駄話をしたり、また、時にはオリエンテーリングのお題とは関係ない所で遊びながら進めていた。

そんな私のチーム「スリースターズ」が優勝するのだから、運とは奇怪なものだ。
ちなみにチーム名のネーミングセンスに触れるのは勘弁願いたい。小学6年生が爽やかでお洒落を意識した結果なのだ。

こういった幸運にしばしば出会う私の人生だが、他人に「君、ラッキーボーイだよ!」と言わしめたことがある。

芸能から離れた高校2年生、バイトを始めた頃の話。
ちょうどその頃、学生生活だけになった為時間を持て余していた私は、原付バイクの免許とバイクを取得したばかりだった。
部活はやっていなかったのかと言うと、高校1年の時サッカー部をクビになって以来部活動は一切していなかった。
クビというより顧問からある日「お前は部員と認めていないから明日から来るな」と通告を受けたのである。
部費も払ってユニホームまで持っていた私は呆然としたが、芸能活動でろくに参加していなかったのだから仕方あるまい。
まあ決定的なことはあったのだが、長くなるのでまたの機会に。
(危ないことをしたわけではないということだけは明記しておく)

あとこれは余談だが、私はバイクの運転中に本意気で歌うという、今考えれば恥ずかしい事にハマっていた。
当時は、歌声はバイクの音で掻き消され、道ゆく人々には聞こえていないと思い込んでいたのだ。
ある日そんな平野を見かけた友達から「めっちゃ歌ってたね」と言われ赤面する羽目になってからは鼻歌程度に留める事にした。
だから今でも時々、バイクや自転車に乗りながら大声で歌っている人を見ると、「聞こえてますよ」と教えたくなる。
まあ知った上で歌っている人もいるだろうから余計なお節介ではあるが。

かなり脱線してしまった。
まあそんなこんなでバイトを始めたわけだが、ある日のバイト終わりの帰り道、
バイクを乗り始めてから、つまりバイトを始めてから3ヶ月ほど過ぎた頃、
私は交通事故を起こしてしまった。

片側3車線ある大通りと環状線の交差点で左折車が急停車して、あわや玉突き事故になるところ、
私の前の3台は見事なブレーキ捌きで停止したのにも関わらず、とっさの判断と技術が甘かった私はブレーキが間に合わず前の車に突っ込んでしまった。
当時流行っていたボックスタイプの車だったので、背面ガラスに突っ込み、粉々になった破片と共に道路に崩れ落ちた。
うっすらと「大丈夫かっ?!」と聞こえてきて目を開けると、辺りにはかなりの血溜まりが出来ており、
その瞬間、誰かを傷つけてしまったと思った私は人生の終わりを覚悟した。
一生をもって償わなければと。

しかし突っ込んでしまった車の運転手が、真っ青な顔で真っ直ぐこちらを見ている事に気付いた私は、
改めて冷静に周囲の状況把握を試みた。
結論から言うと、全て私が流した血だったわけだが、それがわかった瞬間「俺だけが怪我するに留まってよかった」と、
ものすごく安堵したことを今でも覚えている。

第一の幸運は、事故を起こしてしまった車の運転手の方が本当にいい人だった事。
突っ込んだ張本人である私を気遣ってくれて、救急車を呼んだり、血を拭くタオルをくれたり、
後日の事故処理での保険でのやり取りも実に誠意ある対応をしてくれた。
感謝しても仕切れない感謝と同時に、謝罪の気持ちがいつまでもある。

病院に担ぎ込まれ、検査をし、結果を告げられたのだが、その時のお医者さんの第一声が、
「君、ラッキーボーイだよ!」だった。

頭と額を軽く切ったのと、非常に軽い全身打撲のみとの診断で、事故内容にしてはとても軽症だったらしい。
縫うこともなく翌日には普通に学校にも通えたのだから相当な幸運だったのだろうと今でも思う。

しかし幸運があるということは、もちろんその逆もあって然り。
「幸運」という出来事や言葉に甘えず、
常に「自分の行動の結果」に注意を払いながら生きなければと思う。

自分の不注意や怠慢でとんでもない事をしでかしてしまう「パラレルワールド」だって存在しているかもしれないのだ。
生きるということは、最後の時まで終わることのない分岐を選択するということ。
少しでも良い結果を生み出す選択をする為、過去の過ちから学び実行していこうとブログを書きながら改めて思った。

本日もありがとうございました。