さて今日は第二の芸能人生の始まり、舞台を始めた頃を振り返ってみる。

23才の時に事務所に所属したのですが、1年間ほとんど仕事がありませんでした。
事務所からは「今の時代、舞台が出来ないとダメだ」という指摘をことごとく躱し続けた結果だろう。

その頃の私は「舞台は演劇のプロフェッショナルしかできない。映像しか経験のない自分には敷居が高い」と思っていて、及び腰だった。
未知への世界を敬遠してたんですね、本当にもったいない考えだと今では思う。

事務所に入り一年が過ぎ、自分の現状を打破しなければと思っていた時に、舞台「ラフカット」のオーディションがあった。

ラフカットとは4本のオムニバスからなる作品で、4人の脚本家が物語を創り、
ラフカット主催のプラチナ・ペーパーズの堤泰之さんがすべてを演出するというものです。
何十年も前からやっているシリーズで、舞台役者の登竜門的作品。検索してもらうとわかるが名立たる方々が脚本を書いている。

オーディションはちょっとしたワークショップのような形式で行われた。
なので緊張はもちろんしましたが、どっちかというとお芝居をする楽しさのほうが大きかったかな。

運よく選んでいただいたわけですが、初舞台で軸の役をやることにプレッシャーを感じなかったかというと嘘になる。
しかし何も持っていない自分が、いくら気張ったところで仕方がないと開き直っていた気がする。

私が出た作品は性同一性障害を題材にした話で、最後母親に私が手紙でカミングアウトするという繊細な話でした。
そして本来、堤さんがすべてを演出することになっているのですが、私が出演した作品は、作・演出ともに羽原大介さんでした。
羽原さんは「パッチギ」はじめ、「フラガール」や「ゲロッパ」など数々の名作をこの世に残している偉大な方で、
私にとって「舞台の父」のような存在である。

たくさん叱られたし、笑ってくれた。お芝居のことも、心構えも私の基盤はここから始まったといってもいいだろう。

なんせ舞台稽古の最初らへんなんて、台本のト書きに「ささやくようにこう言った」と書かれていたので、
本当に共演者にしか聞こえない音量で台詞をしゃべったりしていたのだ。
即「きこえねぇよ!!」と叱られるのは当たり前だ。
その後も私は「でも台本に、ささやくようにって書いてます!!」と口答えをしていたのだから無知とはなんとも恐ろしいものだ。

演劇での発声や立ち振る舞いなどが分からず、私は先輩たちをカラオケに誘い、
「次までに完コピ出来るよう訓練してきますんで、僕の台詞を舞台仕様で読んでください!」となんとも面倒で不躾なお願いをするほどに追い込まれていた。
先輩方はそんな私を煙たがらずに、丁寧に根気強く教えてくれた。
稽古後も公園に集まり、その日のおさらいやアドバイスをいつもしてくれた。
ほらやっぱ私は人に恵まれている。ラッキーだらけだ。

この作品はキャバレーが舞台になっていたので「ショー」をするシーンがあったのですが、もうめちゃくちゃ練習した。
みんなで夜まで公園で稽古して警察が来たこともあったな。(丁寧に謝罪して即解散しました)
そしてラストは海パン一丁での、シンクロナイズドスイミングのパフォーマンス。
膝立ちが多いので、何度「膝の皿割れた!!」と思ったことか。

それでも本番を迎え、、、
ちなみに劇場は新宿の「スペースゼロ」でした。
初舞台も、初演出でもお世話になりました。その他にも数多くの作品でお世話になっている劇場で、今や家のように心地が良い。

脱線しました。
本番入ってみて、驚いたことは「な、なんて楽しいんだ、、、」という事。
稽古の時は、うまく出来ないもどかしさや、自分への課題に夢中でしたが、
LIVEでお芝居するってこんなにも緊張感があって、スリリングで、でも見てる方々のレスポンスもあって、、、、
「気持ちいぃ、」って。
この時の快感があったからこそ、舞台をもっと学んで、もっと板の上で自由になりたいと思ったんだな。

金八先生の現場では「その場にただただ存在すること」を学び、
ラフカットでは「舞台の上での存在の仕方」を学びました。

この後すぐにテニミュに出演することになるのですが、長くなってしまうのでまた今度。

今日も最後までありがとうございました。