さて今日もポツリポツリと書いていきます。
久々にブログして、ああそうだった、みんなのコメントで逆に元気をたくさんもらってたんだってジーンと染み渡りました。

今が正念場。SNSでも色んなヒーローたちやキャラクター達が力を合わせていて
この優しさや思いやりの繋がりがこの状況をよくしてくれるはずと信じ私も参加させていただきました。

一氏ユウジになってからもう12年たってるんだ。数字にするとちょっとびっくりする年月。

初めてお仕事させてもらったのは14歳。
最初はエキストラとか大御所芸人が司会をしてる再現Vだった。
ローカルCMに受かって初めてカメラがこっちを向いたときはちょっとした達成感に酔いしれたものです。
まあ当時未成年の自分は酔いしれる感覚なんてよくわかってませんでしたが。

それから金八先生に出演させてもらったり
芸能から離れスーツ着て満員電車に揺られる日々だったり色々を経て
24歳の時にテニミュに出演させてもらいました。
14歳から24歳の十年は濃かったな。
でも24歳から今年で36歳になる12年も濃かったですが。
ん?じゃあもうずっと濃い人生だ。有り難いことです。

学校の先生や塾講師、習い事の師匠たちにたくさん授かり受けて支えられてきました。
その中で今日話したいのは小説。
完全にドハマりするきっかけだった重松清大先生の作品のことを少々。

平野少年は根っからの理系で国語の文章問題とかですら嫌いでした。
小学生の時に読んだ小説なんて両手で数えられるくらいじゃないかな。
もちろん名作『夏の庭』を読んで泣いたりすることはありましたが。

そんな平野少年がなぜここまでガラッと一変小説好きになったかといいますと、
少年から青年に変わるころ、それこそ芸能を始めたころかな、
誰にでもあるかもしれませんが思春期に悩みまくる。
とにかく悩む、何に悩んでるのかわからず悩む。もう悩むというより迷うですね。

お芝居の訓練と勉強にあけくれ、どの人格が自分なのかわからなくなってパニックになる。
今考えると何を言ってるんだ青二才!と思われるかもしれませんが当時の平野青年にとっては死活問題でしたね。

自分のこともわからなくなるってことは他人の事なんてもっとわからない。
一緒にいるとみんな楽しいし心から笑えるけれど
ふと一人になったときに今までの楽しい時間は嘘だったんじゃないかと考え落ち込む。

それが進むとみんなで爆笑してた直後にその現象になり一切笑えなくなったり、
ちなみに当時この現象を『つまんない病』ってひっそり命名してた。
ネーミングセンスがすこぶる悪いのは置いておいて心がきつい状況が長く続いてました。

そしてゆくゆくは自傷行為に走ったり、薬をものすごい量飲んで病院に担ぎ込まれるなんてこともありました。
あの時、病院に駆け付けた母の顔は今でも忘れない。本当にバカ息子でした。ごめんなさい。
あんな顔見たら自分で自分を傷つけることなんてしなくなりました。ただやはりボヤーっとした感覚で生きていました。
その時本屋で何気なく手にした本が重松先生の『舞姫通信』でした。

せっかくなので裏表紙のあらすじを引用させていただくと、

『ラストシーンは、もう始まっているのかもしれない。人は、誰でも、気づかないうちに人生のラストシーンを始めている。
17歳で死んだ「自殺志願」のタレント城真吾にとっては、16歳は晩年だった。城真吾は教えてくれた。人は死ねる。いつ。いつでも。
でも、僕は思う。僕の教え子の君たちの「いつか」が、ずっとずっと、遠い日でありますように。
教師と、生徒と、生と死の物語。』

この時の平野青年が読まないわけがない作品。
読んでる最中は、そんなのきれいごとだ、とか、それはおかしい、とか、反発心満々で読み進めていたはずなのに
読了後なぜか少し心が軽くなっていて、霞んでぼやけていた世界が少しだけ澄んで見えたんです。
誰かの心を感じること、知る事、考えること、そのことによって自分の心を感じ、整理していくことがこんなにも自分に大切で助けになるなんて、と。
これが、小説の世界にどっぷりと浸かるきっかけです。

その後も重松作品にはたくさん救われたなぁ。
新作の『ひこばえ 上・下』も素敵だった。
やさしいんです。どの作品も救いがなさそうに見えたりしても結果やさしい。
最後にはいつも背中を繊細に優しく支えてくれて、時に少し、押し出してくれる。

もし読書の習慣がなかったり読んだことない方はこの機会に是非。

なんだか長くなってしまいましたがこれが平野良が小説好きになった経緯でした。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。