Day 3は櫛形山です。

(櫛形山から望む南アルプス、北岳と間ノ岳)


ここは一昨年初めて登りましたが、登山口の駐車場からたった徒歩20分の展望台から南アルプスの峰々が間近に見られるお得な山なので、友人に是非見てもらおうと言う事で選びました。(前日の身延山からは残念ながら南アルプスはほとんど見えなかった。)


もう一つの理由は前日の宿泊が山梨県富士川町と言うところの安いビジネスホテルなのですが、あまり聞いたことのない「富士川町」と言う小さな町に何故か飲食店が沢山あり、当然(?)かなり飲む事になり、通常の登山は無理だろうとの前提です。(実際そうなりましたが。)


写真撮らなかったので、文字だけで表現するのは難しいのですが、何にも無いガラーンとした雰囲気の中心街に、焼き鳥屋、小料理屋、鰻屋、寿司屋、中華料理屋、洋食屋、スナックなどがホテルから徒歩1〜2分のところにあって、どこに行こうか迷うほどです。


結局、小綺麗な小料理屋に入ったのですが、意外に新鮮な魚があり、子供の頃九州で釣りをしていた頃の馴染みの魚、イサキやカワハギの刺身まであって嬉しくなりました。東京ではあまり見かけないのに、内陸の山梨のこんな小さな町で?


そのうち、オーナー板前の小学校の同級生で元高校校長や、議員さん、近所のご夫婦などで賑やかになり、結局みんなで飲み会みたいになってしまいました。コロナ以降この様な事はなかったので久しぶりに、地元の人たちとワイワイ楽しく過ごせました。


「どうしてこんな田舎に飲食店がたくさんあるのか?」を角が立たない様やんわりと聞いてみると:


数十年前迄は今の10倍以上の規模の歓楽街だったとの事。この小料理屋も元は割烹旅館で6代目!


どうも富士川の増穂/鰍沢が駿河湾と甲府盆地を結ぶ河港で、港町として賑わっていた様です。


勧められた地酒「春鶯囀」。与謝野晶子が当地に逗留した時に詠んだ歌が由来だそうで(↓)、歴史・文化が感じられます。(一緒に飲んだ地元の方には申し訳ないですが、現在の町の雰囲気からは想像もできないので、非常に印象に残りました。)


萬屋醸造店は寛政2年(1790年)創業で230余年の間、この富士川町でお酒を醸し続けています。初代萬屋八五郎が現在の地に酒蔵を開き「一力正宗」が誕生しました。
昭和8年(1933年)6代目と文化交流を通じて交友の深かった歌人、与謝野鉄幹・晶子が甲斐路を清遊の折、当蔵に宿泊。その時、晶子女史は「法隆寺などゆく如し甲斐の御酒春鶯囀(しゅんのうてん)のかもさるゝ蔵」と短歌を詠まれました。その際、その短歌に感動して「春鶯囀」というブランドに変えました。これが春鶯囀ブランドのきっかけです。(萬屋HPより)


 富士川町は、甲府盆地の南西部に位置し、一級河川富士川に沿って集落が発達してきました。西には、櫛形山や源氏山などの2,000m級の山々がそびえ、それらを源とする戸川や大柳川などが町内を横断し、人々の生活を潤してきました。
 当地は、富士川舟運を中心とした物資の往来や身延山参詣などの人の行き来の拠点として栄え、物資の輸送や人々の足が鉄道や自動車に代わった現代でも、静岡と甲府、あるいは長野方面を結ぶ交通の要衝にあります。(富士川町HPより)




山より前日の富士川の夜の印象が強すぎますが櫛形山に戻ると:


登山と言う意味ではお気楽。


昨夜、地元の方からも、何しに来たの? 櫛形山と身延山に登山に来たと答えると、それは登山じゃないでしょう、ハイキングと言う反応でした。


しかし、櫛形山は登山口まで細い林道をかなり登っていく必要があり、アクセスに難があります。






舗装されてはいますが、落石を避けながらの細い曲がりくねった道は、軽にはもってこいですが、ベンツで登ってくる人がいるので困ります。離合で接触でもしたら目も当てられません。こう言うところはベンツはやめてほしい。


友人は晴れ男なので、数日前迄の天気予報は芳しくなかったのに見事に晴れました。


登山者も随分増えていました。






個人的には、今年は南アルプスはどの峰に挑戦しようか、色々考えながらので短い登山(ハイキング)でした。


週末なので高速の渋滞を避けて、頂上には行かず早々に退散しました。


(終わり)